夢について

夢はそれが夢だと認識できないからこそいい

夢がまだ夢であるうちはそれが現実

なぜ、あなたがそこにいるのかという疑問など一切なく

目が覚めてやっと気がつく

ああ夢だったのか、と

こっちが僕の現実か、と

 

 僕はほとんど毎日夢を見る。夢といっても寝る時に見る夢だ。未来が明るい夢見る青年とは真反対の人間だが、寝ればあちらの世界の住人となる。自分の頭の中だけの冒険譚のはずなのに、その範疇を超えたカオスな世界が構築されるのが夢のいいところだ。だから、夢をみてしまう体質を恨むことになるなんて少し前までは考えもしなかった。

 まーた、kawaiiの失恋話か、と嫌気が差した読者は次のブロックまでスクロールしなさい。いずれ恋愛小説を書こうとした時に役に立つかもしれないから書かせてくれ。

 別れてすぐは毎日のように彼女が夢に現れた。大抵は恋人の関係のままの恋人が。現実世界であれだけ絶望しておきながら、夢には偽りの光が差していた。夢の中では、それが夢だと気づかない限り、そこが現実。夢の中の僕は数時間前までの苦悩がまるでなかったかのように元恋人と過ごす。あの日から時が止まったままの彼女と。しかし、覚めない夢はない。新しい朝が来た、希望の朝だ、なんていうのは嘘っぱちで、心地よい虚構から一気に突き落とされる。死にたい朝が来た、絶望の朝だ。毎日、夢と現実の落差で胸が締め付けられる所から始まる。想い人が夢に出てきたからといって、夢から覚めなければいいのに、うふふ、なんて、憧れのあの人に恋する少女のようなことにはならず、もう出てこないでくれと何度願ったことか。夢を見ないようにするには寝ない以外の方法がなく、お手上げだった。以前、失恋をテーマに記事を書いた時に、生活から元恋人の存在を消し去れ、と書いたがこればかりは抗えなかった。

 結局、解決策はみつからないまま、時間だけが過ぎていき、半年もすれば、眠ることも怖くなくなり、起床も普段通りにできるようになった。確実に、夢をみやすい体質は苦しい日々が長引いた一因だと言える。夢をほとんどみないような人を羨んだのはこれが初めてだった。

 

はい、ここから本番。

 

 夢を見やすい人と見にくい人がいるというけれど、実際はみんな毎日夢を見ていて、覚醒したときにそれを覚えていられるか否かの差があるだけだ。忘れてしまえば見てないも同然ということ。疲れて睡眠が浅いときは夢を覚えていやすいというけれど、それが真実なら、僕は年中疲労困憊ということになってしまう。夢の見やすさは人によってかなり違うみたいで、友人の一人なんかはほとんど夢を見ないらしい。僕も昔から夢を見やすい体質だった訳ではなく、映画「インセプション」だったり、時々見る面白い夢だったりに影響されて、高校時代に夢に興味をもって色々していたらいつの間にかそういう体質になってしまった。

 夢の見方も人それぞれ違っていて興味深い。僕の夢の出演者たちは僕が現実で知っている人でほぼ構成されているが、知り合いは夢には出てこないという人もいる。僕の夢では、知り合いが出てきても人間関係までは正常ではなく、高校時代の友人と大学の友人との共演なんてのもよくある話だ。そんなカオスな状況でも夢の中では疑問符ひとつ浮かばずに受け入れてしまう。

 

 昔から僕の夢の中で一貫していることがある。何故か僕は夢の中だと走れない。何度も何度も走れない夢をみる。急いでいるときも、何かに追われて逃げているときも、どうしても走れない。プレッシャーに押しつぶされそうな陸上選手でもないのに何故か走れない。正確には、現実世界と同じような速さでは走れなくなる。いくら足を前に出して地面を押し返しても、なかなか前に進めない。水中を走っている感覚に一番近い。秒速5cmくらいで毎回もどかしくなるのがお決まりのパターン。

 それで、グーグル先生に相談してみたら、割と夢の中で走れない人多いらしい。夢のメカニズム的に難しいみたいなことが書いてある記事もあったけどよくわからん。夢占い的には、何か目標に達するのに障害やストレスを感じている、というような記事もあって、夢よく見るやつ疲れてる説とあいまって、大変な体だなあと、他人事のような感想しか抱けなかった。

 こうも長年走れないと、夢の中の僕もそこまで阿呆じゃなかったらしく、解決策をみつけた。二足歩行がダメなら四足歩行でどうだ、と試したら走れる走れる。これ分かってからは、夢の中でよく四足歩行してます。走らなきゃ、あ、やばい、全然進まね、こりゃ手も使って走るっきゃねえ、みたいな感じで。走れない人は是非試してほしい。

 

 他人の夢の話ほど無意味で生産性のない、つまらない話はないとはよく聞くが、雑談に関して言えば、他人の話なんて無意味で生産性のない話がほとんどで、面白いかどうかはその人の話し方しだいなところはある。夢の話=つまらない、は聞き手との親密度に依るのかな。確かに、あまり親しくない人に会話のネタがなくなったとしても、夢の話題を振る勇気はない。僕もたまに友達になら夢の話をする。ただ、夢の話題となれば、個人的な話の中でも、実際に起きているわけでもない頭の中の絵空事なので、話す相手は選ぶようにしている。なかなか話し甲斐のある夢を見たときは、「この前、面白い夢見てさあ…」で始められるが、特に興味深くもないけど話したいなあ、なんて夢を見たときは「この前、こんなことがあってさあ…。っていう夢みたんだけど、夢でよかった」みたいな、夢オチで終わらせることもある。夢オチパターンはたまにやるとヒットすることもあるのでおすすめ。

 

 夢につて書くきっかけが、最近初めて明晰夢をみたから。明晰夢って何、って夢について調べてみたことがない人は思うだろう。明晰夢とは、夢を見ていると自覚している状態で夢を見ることだ。中学生のkawaiiはふと思った、自我を保ったまま夢の世界に入ることができれば、ありとあらゆるものが思いのままになるのでは、と。そこで明晰夢というキーワードにたどり着いた。明晰夢はトレーニング次第では見られるようになるという情報を仕入れ、まだ見ぬ夢の世界へ思いを馳せるようになった。

 明晰夢をみるには大前提として、普通に夢を見られるようにならないといけなかった。そのために僕は夢日記なるものをつけてみた。枕元にノートとペンを置いておき、起きたら忘れる前に間髪入れずに夢の内容を書き記す。しかし、全然続かなかった。ただの日記ですら他人に見られたら恥ずかしいものを、カオスな夢の状況を綴ったものなど、この世界に存在させてたまるものか、と馬鹿々々しくなってしまった。実家暮らしの僕からしたら、母親という最大級の脅威は見逃せなかった。世に自らの恥部を晒す危険を冒さない別の方法をとることにした。その方法とは、二度寝で夢の続きをみることだ。二度寝といっても、完全に寝てしまわずに半分覚醒状態を保ったまま物語を進行させる。夢と現の狭間で、半身だけあちらの世界に入り込む。そうすることで、完全覚醒の際に夢を覚えていやすい。これは普段から、おしいところで朝が来てしまった時に自然としていたことなので難なくできた。そんなことをしているうちに、夢の毎日投稿機のような体になってしまった。

 さて、明晰夢を見る訓練の方はというと、まったく上手くいかず、努力が実を結ぶことはなかった。明晰夢を見るためにやったことは、映画「インセプション」を観たことがある人にはお馴染みのあの行為だ。インセプションの主人公はそれをコマでやっていた。夢の中ではコマは回り続ける。行為自体は何でもいいのだ。現実世界で簡単なルーティーンを繰り返し行い、その質感を記憶しておく。それを夢の中でやった時に、その質感の違いに気がつければ、夢を夢として認識できる。僕は夢判断機として、右手をつねるというのを数日やってみたが、どうも夢の中の僕は、手をつねることなんかより楽しいものがたくさんあったようだ。恐らく、癖のレベルまでしないと使えないようだ。そんなこんなで、明晰夢願望は抱きつつ、見る努力をするのはやめた。

 で、今に至って、ようやく何の前触れもなく明晰夢をみることができた。しかし、その一回きり。それにしても楽しかった。極悪人にも英雄にもなれたはずなのに、僕がやったことといえば、空を飛んだだけだった。だけど、五感はリアルを感じ取っていて気分は最高潮だった。夢の中で夢だと気付いた時には感動はなかったのに、目覚めた瞬間、「あ、もしかして明晰夢みれたんじゃないか」と長年の夢が叶って胸が躍った。

 

 明晰夢の他に、もう一つ夢の楽しみが僕にはある。夢の多重構造だ。これもまた、インセプションを観たことのある人なら知っているはず。インセプションを観たことがない人は超絶おすすめ映画なので観て損はしないと思う。夢の多重構造とは、つまり、夢の中で眠りにつき夢を見るということだ。普段見ている夢が第一階層、夢の中の自分が見ている夢が第二階層、というように、夢の深く深くへと潜っていくことだ。僕は人生で2度ほど、第二階層までいったことがある。夢から覚めて生活していたら、また夢から覚めた、という状況になる。

 映画内では、深い階層に行けば行くほど、その人の深層心理に近づけることになっているが、現実世界は映画とは異なる。夢の中では、寝て夢をみて起きるという動作が必ずしも一連にならないからだ。例えば、夢の中(第一階層)で寝なくとも、目が覚める夢を見てしまえば、覚める前が第二階層、覚めた後が第一階層となってしまう。反対に、第一階層で眠った夢を見て、第二階層の夢から目覚めても、第一階層に戻らず、現実の目覚めとなってしまうこともある。映画のように各階層がしっかりと区切られているわけではないので、第三階層以降に行くのはあまり意味がないと思っている。ここで重要なのは、「あれ、夢から覚めたと思ってたのにまだ夢の中だったんだ」という普段の夢では味わえない感覚だ。

 

 夢は誰しも毎日みるものだ(ほとんどは忘れてしまうかもしれないが)。仮構のもの、生産性のないもの、と片付ける前に、夢で遊んでみたらどうだろうか。まだ見ぬ奥深き世界が待っているかもしれない。夢をみないという人も、まずは夢に興味をもって、夢を見ようと向き合ってみる。そして、起きてすぐに布団の上で、あんなのが楽しかったなあ、なんて夢の振り返りをしてみる。

 まずはそこから。夢の中なら何でもできる、何でも叶う。