生活について

 生活、つまり生きる活動である。それが生きる"ための"活動なのか、生きた"結果の"活動なのか、生きる"のをより良くする"活動なのか、生活の定義は十人十色である。一般に生活と言えば、毎日繰り返される日々の生き方ととられられる。その積み重ねが人生となるのだから、生活を少しでも良くしようと考えるのは自然な流れである。また、生活が荒めばその人の心も荒む。心が荒んで生活が堕落する場合もある。逆に、生活が豊かになれば心にも余裕ができる。この場合の豊かさは必ずしも物質的な豊かさではない。
 大学生になったら親元を離れ一人暮らしを始めたので僕の生活は一変した。それまで、家に帰れば誰か家族が出迎えてくれ、時間になれば食事が出され、何もせずとも部屋は綺麗な状態を保たれていた。一人暮らしというのは"生活力"が必要なのだと始めてわかった。ここで言う生活力とは、面倒だが生きていく上でしなくてはならないことをうまくやっていく力とでも解釈してほしい。掃除、洗濯、自炊、食器洗い、日用品の買い物、今まで実家でやってこなかった事をすべて一気に課せられたのだ。生きるのはとてもめんどくさい。ただ3年間も一人で暮らしていれば生存最低限のことはこなせるようになった。
 僕なりに生活をより良くするために必要かつ重要なものが3つある(本当はもうひとつ一番重要なことがあるがここでは伏せておく、出し惜しみとかではなく場に相応しくないので)。適度な運動、きちんとした食事、十分な睡眠。とても当たり前のことだ。しかし、今を生きる大学生は遊びやらバイトやら勉強やらでその3つを満たす生活を送れてる人は多くはないはずだ。この3つが出来ているからといってスーパーマンになれるわけではない。マイナスがプラマイゼロに戻るだけだ。しかし少なくとも、その死んだ魚のような目からは卒業できるだろう。
 3つの中でも最も難しいであろうきちんとした食事について。大学入学前は未だ見ぬ単身生活に心踊らせ、自炊マスターにでもなってやる、と意気込んでいたのが懐かしい。3年間、生活してみてフライパンの使用は十数回、最も使われているのは断トツでコップと箸である。一時期は洗い物もめんどくさく、紙コップと割り箸を使っていた時期もあった。つまり、自炊などほとんどしていない。それでも2年生までは気が向いたら自炊してみたりもしていたが、今では完璧に自炊しないと決めた。作るのもめんどくさい、何を作るか決めるのですらめんどくさい。現在、朝晩はもう固定メニューを決めていて悩む必要はない。あとは昼だけなのだが、昼も解決策になりそうなものを見つけたので試行段階にある。毎日同じものを食べてて体に良くないのでは、という疑問も残ったが、即席麺やコンビニ弁当などのいかにも体に悪いものを食べている訳ではないし、そういうものばかり食べている人でも生きていけているんだから大丈夫だろうと、言い聞かせている。また食事事態は好きだが毎回の食事に楽しみを見いだす必要はないと考えているため、食事楽しみ回以外は栄養補給作業と思って遂行している。ただ、食べたいものがある時は欲求に従って食べたいものを食べている、呼ばれればラーメンでもハンバーグでも。
 ある映画で生活の本質を気づかされた。毎日の生活に刺激を求めていた僕には逆説的でとても衝撃的だった。それは、毎日の生活を毎回同じように生きる、ということだ。新たな刺激がある日々を求めて生活するのとは真逆のことをしろ、と。毎日同じように生きれば一見単調になるように思われるし、単調になる瞬間もあるだろう。しかし、毎日同じように生きれば、同じように生きてきた過去の日との違い、今日の特別性がはっきり認識できる。一日単位で特別な日ではなくて、その特別な瞬間を見逃さず感じることができるようになる。
 この先、死ぬまで生活は続くのだから考えて生活しようということ。