人は一人では生きられないということについて

 人は一人では生きていけない、という言葉を、誰しもが人生に一度は耳にしたことがあると思う。社会的に、経済的に、精神的に、色々ひっくるめて一人では生きていけないと言いたいのだろう。でも、ある程度の生きる知識をつけ、肉体的にも成熟したら不可能ではないはず。山で隠居するなり、無人島で自給自足生活を送るなり。大変かもしれないけど生き延びることはできる。

 人は一人では生きられない、だと少しニュアンスが変わってくると思うのは僕だけだろうか。言葉の意味としては等しいものなんだろうけど、後者には人同士の、自己と他者との関係を説いている響きが感じられる。ホモサピエンス、つまりヒトとして、一人では生きられないのではなく、人として生きられないと。

 一個の生命体、ヒトとして生きているという定義は難しいところがある。何故、僕は生きていると言えるのか。心臓が脈を打って体を新鮮な状態に保っているから、としか言えない。少なくとも心臓が止まったまま生きている人を知らないから。

 では、人として生きている、となるとどうか。僕が今言う「僕」はきっと、人と人との間で生きている。他者との交わりを経て、つぎはぎして、僕が更新されていく。

 関わりの持つ他者の数だけ、僕の一部としての僕が生きている。長男としての僕、大学生としての僕、友達としての僕、塾講師としての僕、恋人としての僕。場に応じた役を演じ分けている。裏表のない人と言われるような人であっても、他者とのチューニングのようなことはきっとしている。どれが本物でどれが偽物という話ではなく、どれも僕の一部。その中の、演じていて心地よくて楽な僕が主たる人格になっている。

 相手がいて初めて僕が生きられる。僕の中の僕が。

 だから、僕の中のある僕が死ぬのも簡単。その人との関わりがなくなってしまえば、その人との間で生きていた僕はきっと死ぬ。自ら殺すこともできるし、殺されることもあり得る。

 その人の人生に一切の干渉を許されなくなった時、僕の中のある僕は死んでしまうのだろう。そして、その後は死んだ僕なしで、また生きていくしかないのだろう。