まだその時ではない

 アニメSHIROBAKOが映画化されるということで、そろそろ放送分を観ないと映画いけないな、と思い今回は書いている。
 アニメにしろ小説にしろ「オススメなにかない?」と尋ねた時に快く薦めてくれる友人は、僕の知らない世界を広げてくれる数少ない窓口だ。しかし、次に会ったとき、「あれ!どうだった!?」と餌を前にして待てを命じられる犬のように感想を求められても、「まだ観てない」と答える、なんてことが多々ある。友人の薦めてくれたものに興味がなかったわけではない。しっかり面白そうだと思った場合でも。
 「なんでまだなの?」と問われれば、「まだその時ではない」と返答する。「なら、いつその時が来るの?」と問われれば、「いつかはわからない」と返答する。
 この行動の原理は、空腹は最高のスパイス理論に基づいている。美味しい料理を食べるのに、空腹かそうでないかならば、空腹の時に食べた方が美味しく感じる。お腹が満たされている状態で食べて、空腹だったらもっと美味しくいただけたのかも、なんて後悔をしたくない。記憶喪失にならない限り、その料理を食べる初めての瞬間は1度きりなのだから。それならば、そのコンテンツをある程度欲している状態で味わいたい。
 薦められた時点では自分の内からの欲求ではない。友人の言葉は外的要因であり、外からかき立てられた意欲だ。まだ寝かしておけば、いつかその意欲を越す日が来るかもしれない。すぐに手を出すのはもったいないと思ってしまう。
 これに1番近い行動は積ん読だと思う。本屋では読みたくて買った本だけど、「その時」でなければすぐには読まない。寝かせておいて、読みたい欲求が自然と溢れたときが「その時」だ。
 1年以上寝かしておくこともよくある。SHIROBAKOなんかは恐らく2年以上、早く観ろと言われている。2年間も「その時」が来てないなら、一生来ないんじゃないか、と言われることもある。来ないこともあるかもしれない。そればかりはわからない。
 

化粧して、かわいい服着て

 久しぶりの投稿で、半年以上、文字を連ねるということをしていないので、なかなか言葉が出てこない。短めに切り上げようか。

 2年前くらいから森博嗣を読んでいて、誰もが一度は耳にしたことがあるであろう『すべてがFになる』のS&Mシリーズ全10作をつい最近読み終えた(森博嗣の話はまた別の機会に)。そして次のVシリーズを読み始めて、そこに小鳥遊練無という男の子が出てくる。いわゆる、男の娘だ。それで、あぁいいなと思ってしまったわけだ。
 僕自身、過去2回ほど女装したことがあるわけだが、少し化粧してセーラー服着ただけの即席男の娘でクオリティもそうとう低かった。動機も興味本位と学園祭のテンションだった。
 女装趣味の男性が世には少なからず存在するのは何故なのか。違った自分になりたい?その格好で街を徘徊する興奮?心が女の子?
 そのどれでもなく、かわいいを纏いたい、っていう動機の女装男子もいるはず。かわいいを体現しやすいのが、たまたま女性の外見ってだけで、言ってしまえば別に女装でなくてもいい。でも、化粧するのは女の子、かわいい服を着るのも女の子、ネイルをするのも女の子。女の子の風貌をしてたほうが自然だ。
 僕の近くの人たちはご存知の通り、僕はファッションに疎い。それは僕のスタイルの悪さが諦めを生んでる節もあるけども、第一には着たい服が少ない。男物に。女の子の服でいいなって思うことの方が圧倒的に多い。ワンピース着られる女の子たちが羨ましい。
 化粧も男がしたらヴィジュアル系か?となってしまう。女の子なら、いくらでもかわいいを作れる。男には、そのようなかっこよさ
増し増しツールはない。

 って書いてて、気づいたんだけど、これは結局のところ、武装してテンションぶち上げたいんだな。男に生まれてきたのに、男性として外見キメて気持ちを高める方法が思いつかないんだわ。

短編処女作を書いたので読んでくれ

 僕が吐き出したかった渦巻く感情をフィクションとして文字に乗せて書いたもの。

 最後まで読んでも得るものは何もないと思うけど、どうか拙い文章にお付き合いください。Twitterでいいね、RT、コメントくれると喜びます。指摘でも。

 

縦書きで読みたい人は↓

kawaii.goat.me

 

 

海辺で春を待つ

 コーヒーを飲みながら僕は向かいに目をやる。彼女は口がケチャップで汚れぬよう、一口ずつ慎重にナポリタンを口に運んでいた。いつもより大きく口を開けて食べるその姿がすこし滑稽で、それでいて可愛くも見える。
 僕たちは窓際の席で向かい合って座っている。店内には音楽は流れてなく、他の客たちの微かな会話の声だけが時々聞こえてくる。僕は注文した分の料理を食べ終え、気長に彼女が食べ終わるのを待っているところだ。
 食事をする姿を面と向かって見られるのはあまり気分のいいものではないのを承知の上で、手持ち無沙汰の僕は彼女の食事をする仕草を、映画のワンシーンを撮る監督のように観察する。細くてしなやかな左手の指でフォークを躍らせ、右手で髪を耳にかける。
「何みてるの」と彼女は食べるのを中断して、頬を赤らめて言う。
「君が食べているところ」と僕は少しいじわるに返す。
そして、彼女は眉間にしわを寄せ、僕を一瞥して食事を再開する。このやりとりも何度目だろうか。毎回、一瞥した後、彼女は隠しきれずに照れ笑いがこぼれてしまうのを僕は知っている。
 彼女が残りのナポリタンをフォークで巻き取る。彼女の一口にしては少し大きかったのか、両頬をふっくらさせながらランチを締めくくろうとしている。口周りは肌の他の部分と同じように白く、上手にナポリタンを食べ切れたようだ。
「コーヒーは飲んでいく?」と僕は彼女が食べ終わったのを見計らって言った。
「ねえ、海に行こう」彼女は僕の話を無視して提案してきた。
「もう夏も終わるのに、なんでいきなり」
「いいじゃない、それとも今日は他に何かご予定が?」
今日は昼前に集合して、適当な店に入りランチを食べ、適当に街を徘徊するくらいの適当なデートの予定だった。だから、特に決まった行き先があるわけでもない。しかし、海に行くとなると車で 一時間はかかる。海水浴なら新しい水着も買わないといけないし、車も砂だらけになるだろうし、と海に行かないで済む言い訳を考えていると、彼女が見透かしたような顔をして言った。
「じゃあ決まりね。海なんて久しぶりだわ。買っていきたいものがあるから、少しショッピングをしてから海に向かいましょ」
 僕は諦めて、彼女に従うことにした。どうせ、彼女を連れて行きたいところを思いつかなかったわけだし。
「僕も水着がないからちょうどいいや、でも君、泳げたっけ?」と僕が言うと、彼女は一瞬きょとんとした顔をして、笑いながらこう言った。
「何を言ってるの、海には行くけど入りはしないわよ。ただ、私の昔からの、ちょっとした夢を叶えにいくの」

 

 僕らは会計を済ませ、お店を出た。夏が終わりかけてるといっても、太陽はまだまだ働き盛りのようで、ランチを食べている間、熱心に車を照らし温めてくれたようだ。車の戸を開けた瞬間、どんよりとしたぬるい空気が肌をかすめた。車に乗り込み、エンジンをかけると、助手席に座った彼女がすぐに冷房をつけた。車内が、過ごすのに適当な環境になるまで少し待つことにした。
「ショッピングといってもどこに寄っていけばいい?そもそも何を買っていくんだい?」と僕は尋ねた。
洋服屋さんに寄って行ってほしいの。通りがかりにあるショッピングモールで十分よ。何を買うかは、そうね、内緒」と彼女は少女のような顔で嬉しそうに言った。
 洋服屋に行くのだから、おそらく、服を買うのだろう。しかし、どんな服を、どんな目的で買うのか、僕にはさっぱり見当もつかなかった。彼女はちょっとした夢を叶えるため、と言っていたけれど、どういうことだろう。
 少し考えてみても思い当たる節はなく、買い物が終わったら何を買ったか判明するだろうしいいや、と考えるのをやめ、その頃にはすっかり車内も涼しくなっていたので、車を出した。

 

 南へ車を走らせ二十分くらいでショッピングモールに到着した。
「あなたもついてくる?」と彼女は言った。
「車内で待つには暑すぎるかな。君が買い物を終えてルンルンで車に戻った時、茹でたタコみたいにくたびれて動かない僕を見たいって言うなら話は別だけど」
「タコは好きよ。でもあなたがタコにならなくても、私の世界にタコは十分足りてるの。それにあなたが動かなくなっても困るわ。私ひとりで海に行っても意味がないの。あなたと一緒に行くことで、やっと私は満足できるの」
「どれくらいかかりそう?」僕は他人の買い物についていくのが苦手だ。
「三十分くらいかな。あなたはどこかでコーヒーでも飲みながら時間を潰してくれればいいわ。済んだら連絡するね」
 それで僕たちは車を出て、ショッピングモールの入り口で別れた。
 モールですれ違うのは、子供連れの家族が大半を占めていた。若いカップルとも何組かすれ違った。
 少し歩くと、街でよくみる、チェーン展開しているカフェが目に入り、何も考えずに入店した。入って突き当たりの、二人掛けテーブル席に腰をおろし、すぐにウェイターが水とおしぼりを持ってきた。先ほど昼を食べたばかりだし、甘い物も欲していなかったから、僕はその場でアイスコーヒーをブラックで注文し、煙草に火をつけた。
 店は繁盛していて僕が座った席でちょうど満席になったようだ。しかし、半分くらいの客は注文したものを飲み食いし終わり、談義に花を咲かせているようだった。ウェイターも昼時の一山を越えて、今はそこまでの忙しなさはなさそうだ。店内にはどこのカフェでも流れていそうな、どこかで聞いたことあるようなジャズミュージックが流れている。
 煙草を一本吸い終わるころにはアイスコーヒーが運ばれてきた。アイスコーヒーも夏の暑さで汗をかいているかのように、グラスの表面に水滴を垂らしている。一口飲んで、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜ、からんころんと氷とガラスのぶつかる心地よい音を楽しんだ。
 じっくり三十分かけて、コーヒーと煙草を満喫したところで、やっと彼女から連絡がきた。
 僕はカフェを出て、来たときと同じ通路を通って車まで戻った。僕の方が先に車についたようで彼女はまだいない。先に車に乗り込み、冷房を最大出力にして彼女を待つ。
 突然、助手席のドアが開けられた。このタイミングでドアを開け車内に入ってくる人など彼女しかありえないが、一瞬、誰が乗り込んできたのかわからなかった。三十分前までの彼女の服装とまるで違ったからだ。三十分前までは、胸の真ん中あたりによくわからないロゴがプリントされた白の半袖ティーシャツに濃い藍色のジーパン、黒のナイキのスニーカーという格好だったのに、腰のところがキュッとすぼまり、下の丈は足首くらいまで隠れる、半袖のシンプルな白のワンピース姿に変身していた。おまけに、白のサンダル、麦わら帽子までつけて、夏を全身で表現していた。
「おまたせ。どう?似合ってるかしら?」と彼女は自分の服装を今一度確認しながら言った。
「似合ってるも何も、それを買うために寄ったのかい?」僕は虚を突かれてうまく返事ができない。
「そうよ、この格好であることが重要なの。ついでだから、そのまま着替えてきたの」
「よくわからないなあ。砂で汚れるのにわざわざ買ったばかりの新品でいくかなあ」
「いいの。じゃあ、海に向かいましょ」と彼女は麦わら帽子をはずし、シートベルトをしながら言った。

 

 街を数十分、車で走って、海沿いの道に出た。沿岸をさらに進み、十台くらい駐められそうな駐車場を見つけた。駐車場の後ろには防波堤を挟んで砂浜が左右に広がっていた。砂浜のある海なら別にどこでもかまわないと彼女が言ったので、僕はそこに車を駐めた。僕ら以外に人はいなく、駐車場にはぽつんと、寂しそうに僕らの乗ってきた車だけが駐まっていた。
 彼女が麦わら帽子を頭にのせ、僕らは車から降りて、防波堤を越える。彼女が前を歩き、僕も彼女の後ろからついていく。
「わー、海だ」と彼女は子供のようにはしゃぎ、小走りで海の方に向かった。僕は砂が靴の中に入らないよう、できるだけ地面に対して垂直に足を下ろして歩く。砂浜を半分くらい進んだところで、彼女は僕がついてきていないことに気づき僕の方を振り返る。海を背景に、夏の日差しでより一層白く見えるワンピースが一瞬、ひらひらと傘のように広がる。僕の足が勝手にとまる。数秒間、頭の中が目から入ってきた彼女の立ち姿だけになり、みとれてしまった。その空間が儚くも美しい絵のようで、もし僕がそこに入ってしまったら、壊れてしまうんじゃないかという不安から僕は立ち止まったままだった。
 彼女が僕の方に歩いてくる。
「はやくいきましょ」と言って、彼女は僕の右手を引きながら、波打ち際まで僕を引っ張っていった。僕も靴の砂は観念して、彼女に引かれるがままに歩いた。
 彼女は少しの間、何も言わず、僕の手を握ったまま、眩しそうに水平線を眺めていた。この瞬間に、ここに存在することを噛みしめているようにもみえた。僕がそんな彼女の横顔に見とれていると、不意に彼女も僕の方を見て目があった。そして一瞬、満足そうに笑ってみせて、再び目線を海に戻した。
「私、海に来るのいつぶりだろう。」と彼女は言った。「あなたと出会った時から、次に海に行く時はあなたと一緒に行くと決めてたの」
「それは君がお昼に言ってた、ちょっとした夢と関係があるの?」
「ええ。別に大したことじゃないのよ。ただ、白いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶって、私の好きな人と浜辺を歩く。それだけ」と言って、彼女は僕の方に寄り添って、頭を僕の肩にあずけた。彼女の腕は赤ちゃんのように白くて柔らかく、汗一つかいてないようで、さらさらしていた。彼女は目をつむり、波の音に耳をすませる。触れ合う右手で僕を感じ、体全てで、自分がここに存在していることを心にゆっくりと浸透させているようにみえた。
 太陽も本日の務めを終え、海に帰る準備をしている。
「今だけは、世界は私のものなの。この海も空も太陽も。今流れている時間も。それにあなたも。どれも独り占めできないことはわかってるの。たとえ、少しでも私のものにできたとしても、それが長くは続かないことも。でも、今だけは私だけのものだと思わせて」彼女は一片の憂いを帯びた表情でそう言った。僕は彼女の右手をほんの少し強く握ってやることしかできなかった。

 

 僕らは防波堤の上に座り、太陽が沈んだばかりの水平線をふたり並んで眺めている。
 季節はシームレスに移り変わるもので、いつの間にか次の季節がやってくる。でも、きっと今日が僕にとっての夏の終わりなんだろう。
「また来年もこうやって君の隣に座っていられるかな」と僕は視線を下ろしながら言う。
「それはわからないわ。あなたにも私にも、他の誰にも」彼女はすこし強がっているようにもみえた。彼女の言っていることは正しい。今がどれだけ満たされていても、それが続く保証はどこにもないのだ。それが続くことの方が珍しい。
「この世界には至るところにリズムがあって、それをもとに時間が流れているの。夏が終わり、そして秋がやってくる。厳しい冬が来ても、また春がやってくると知ってるからみんな頑張れるの。季節だけじゃない。今日のような満月も日に日に欠けて、新月になる。そしてまた、月は満ちていく」と彼女に言われて空を見上げると、白く輝く丸い月が空から僕らを照らしていた。
「でもね、人と人との関係には当てはまらないみたい。一度でも、新月になってしまったら、一度でも、冬になってしまったら、きっともう満月が暗闇を照らすことは難しいし、新芽が春の訪れを感じて芽吹くこともないの」
 そこで僕は先ほどの彼女の言葉の意味を理解した。今だけはわたしのもの。
 彼女は僕より現実をみていた。ゆるく続く幸せが日常となり、それがこの先も崩れることはないだろうと、甘んじていた僕なんかより。

 

 暗い海沿いの道には数少ない街灯が等間隔で並んでいる。対向車も一度すれ違っただけで、僕は自分の車のライトを頼りに車を走らせる。この前の夏に来た時に駐めた駐車場が見えた。前に来たときと同じで車は一台もない。僕はそこに車を駐める。エンジンを切り、車から出て、あの日座った防波堤の上に立つ。煙草に火をつけ、海と空とが曖昧に溶け合っている水平線をぼんやりと眺める。
 今日は僕の独り占めみたいだ。広く深く黒い夜空に月は顔を出していない。
 そういえば今日は新月らしい。空にはオリオン座が煌めいていた。

 

 

 

人は一人では生きられないということについて

 人は一人では生きていけない、という言葉を、誰しもが人生に一度は耳にしたことがあると思う。社会的に、経済的に、精神的に、色々ひっくるめて一人では生きていけないと言いたいのだろう。でも、ある程度の生きる知識をつけ、肉体的にも成熟したら不可能ではないはず。山で隠居するなり、無人島で自給自足生活を送るなり。大変かもしれないけど生き延びることはできる。

 人は一人では生きられない、だと少しニュアンスが変わってくると思うのは僕だけだろうか。言葉の意味としては等しいものなんだろうけど、後者には人同士の、自己と他者との関係を説いている響きが感じられる。ホモサピエンス、つまりヒトとして、一人では生きられないのではなく、人として生きられないと。

 一個の生命体、ヒトとして生きているという定義は難しいところがある。何故、僕は生きていると言えるのか。心臓が脈を打って体を新鮮な状態に保っているから、としか言えない。少なくとも心臓が止まったまま生きている人を知らないから。

 では、人として生きている、となるとどうか。僕が今言う「僕」はきっと、人と人との間で生きている。他者との交わりを経て、つぎはぎして、僕が更新されていく。

 関わりの持つ他者の数だけ、僕の一部としての僕が生きている。長男としての僕、大学生としての僕、友達としての僕、塾講師としての僕、恋人としての僕。場に応じた役を演じ分けている。裏表のない人と言われるような人であっても、他者とのチューニングのようなことはきっとしている。どれが本物でどれが偽物という話ではなく、どれも僕の一部。その中の、演じていて心地よくて楽な僕が主たる人格になっている。

 相手がいて初めて僕が生きられる。僕の中の僕が。

 だから、僕の中のある僕が死ぬのも簡単。その人との関わりがなくなってしまえば、その人との間で生きていた僕はきっと死ぬ。自ら殺すこともできるし、殺されることもあり得る。

 その人の人生に一切の干渉を許されなくなった時、僕の中のある僕は死んでしまうのだろう。そして、その後は死んだ僕なしで、また生きていくしかないのだろう。

 

ある2月の午後にデートして思ったことについて

 僕は恋愛には向いていないようだ。またその結論に至ってしまった。向いていない、という言葉のニュアンスからは少しズレたところにあるのかもしれないけど。
 類は友を呼ぶ、ということわざは昔から使われているだけあって正しいらしい。僕の周りにも恋愛障害者特級ばかりいる。どうも、恋愛が難しい。逆立ちしてフルマラソン走る方がきっと容易い。しかし、こうなると、世の中には健常者の方が少ない可能性もあるにはある。階級に差はあれど、皆おなじ。ただ、周りが恋愛障害者で溢れているからといって、僕もその一員なのには変わりはない。
 何事にも向き不向きはある、とよく誰かが言う。そのまま受けとれば、恋愛に向いている人、いない人、というのがいても不思議ではない。でも、僕は向いているいない以前に、恋愛をする術や心構えみたいなものが人より足りていない気がする。そして、それは誰も教えてくれない。
 こんなことを言うと、
「俺なんて年齢=彼女いない歴なんだぞ、贅沢を言うな」
なんて言われそうだけど、別に贅沢を言ってるつもりはない。可愛くて面白くて趣味のあう恋人がほしいって言ってるわけじゃないんだから。僕自身に問題がある。

 その日はカレーを食べて京都をぶらぶら歩いて、またカレーを食べて、ぶらぶら歩いて、という日だった。楽しかったし、それなりにおしゃべりもしたし、恋人の知らなかった部分も少しは知れた。普通に考えれば、特に不満のないデートだった。
 でも、それを仲のいい友達とやっても、多分同じくらい楽しいだろうし、恋人のことを知れたのも会話の偶発的なもので、自分から知ろう知ろうとしてのことじゃない。きっと、楽しむウエイトが「デートの行程>彼女との時間」に知らず知らずのうちになってたんだろうな。どこに行くかは問題じゃなく誰といるかが重要、になっていないんだ。彼女の隣で歩いた道、会話のやりとり、一緒に食べたもの、で二人の歴史みたいな何かを作っていくという意識がない。
 決して、今の彼女に魅力がないからではない。きっとこれは僕自身が抱える問題なんだ。恋愛をする術を習得せずにここまで生きてきた故の結果。
 心の輪郭をそっとなぞるように彼女の在り方を探り、ひとつひとつ丁寧に壁を取り除いて彼女の核に歩み寄っていくような姿勢がきっと正しいんだろうけど、僕にはそのやり方がわからない。
 きっと、恋することは誰にでもできるんだよ。いつの間にか好きになってるんだから。勝手に恋に"落ちる"だけでいい。でも、愛するとなった途端、厳重に施錠された重くて分厚い鉄扉が僕の目の前に立ち塞がる。僕はそれを開けるための鍵がどこにあるのかもまだ知らない。仮に鍵が見つかったとしても、その扉を開けられるかどうかもわからない。
 恋愛の仕方を皆どこで学ぶのか。巷に流通する恋愛ノウハウ本には小手先のテクニックしか書かれていない。やっぱり、トライ&エラーを繰り返して自分ひとりで闘っているのかな。
 表面上だけ取り繕ってるカップルを演じることなら、きっと僕にもできるし、何も考えずにそうしている方が幸せなのかなと思うことがたまにある。それに、恋愛の仕方の答えのようなものを見つけたとしても、それが正解とも限らないし、そこがゴールでもない。もっと言えば、恋愛なんてしなければ、こんなこと考えずに済むわけだし、きっと僕には向いていないんだろうな。

 

オムライスについて

 母の料理の腕は、そこそこ美味しく食べられるが、これでお金はとれないだろうな、というくらいの一般主婦平均レベルだ。そんな母の手料理を10年以上食べてきたが、稀にその平均レベルを少し越すくらいの一品が食卓に並ぶことがある。その一つがオムライスだ。さすがにこれで一食500円はとれないけど、きっと友人たちの母よりは美味しく作れるはずだ。試しに食べに来てくれてもいい。

 母のオムライスには転換機があった。それまではチキンライスに、しっかり熱の通した薄焼き卵をのせただけの素朴なものだった。当時の僕もオムライスに一目置くことはなかった。それがいつからか、うっすら半熟の卵をのせるようになった。僕が母のオムライスを好きになったのはそれからだった。やはり、オムライスはふわふわ玉子に限る。

 最も一般的なオムライスといえば、薄焼き卵でチキンライスをしっかり包んだものだろう。包む手間がめんどくさかったのか僕の家では包まれたものは出されたことがない。フライパンの上で円盤型にされた玉子をチキンライスにのせるだけだ。だから、昔ながらの洋食店でしか包まれしオムライスを食べたことがない。オムライスも日々進化していて、少し前には、ふわふわの玉子を割ったらトロトロの中身が溢れ出すなんてのも流行ったりした。パフォーマンスの部分が大きいと思うけど、あれを作ってあげたら女の子には喜ばれるんだろうなって思ったりもする。とにかく、ふわふわとろとろの玉子を使ったオムライスが世に誕生したことには感謝しかない。

 

 そもそも、チキンライスと玉子の組み合わせを定着させたのは素晴らしい偉業と言ってもいい。白米だとやはり味気ない。バターライスやピラフを使うのをお店でも見たことがあるけど、やはりスタンダードなオムライスにはチキンライスが一番だ。チキンライス以外のライスたちが活躍できるのは、オムハヤシ、オムカレー、デミグラスソースがけ、といったソースの主張が強目のときだけだ。

 オムライスには当たり前のようにケチャップがかけられる。僕はそれがうまく受け入れられなかった。だって、大量のケチャップで炒めたチキンライスの上に、玉子を挟んで、またケチャップを上のせするなんて。ケチャップどれだけ好きなんだ。しかし、僕以外の家族は誰もその違和感を共有してくれなかった。いまひとつ物足りない、あと一歩の家庭的オムライスを食べ続け、ある日やっと救世主が現れた。冷蔵庫からいつものようにケチャップを取り出そうとしたとき、隣のマヨネーズが目に入った。ケチャップと同じ容器の形をしているし、試してみようと一口分だけかけて口に運んだ。その瞬間、今までの違和感が消え去り、マヨネーズこそオムライスにかけるにふさわしいと確信した。玉子の甘さと、マヨネーズのまろやかさの中にある酸味とがマッチした。この大発見以来、ケチャップがけのオムライスを家で食べた記憶はない。

 ところで、オムライスってどこが発祥なんだろう、オランダとかかな、なんて考えていたんだけど、調べてみたら日本だった。オムレツ+ライスの和製英語だった。洋食屋で出てくるのに、オムライスよ、君は日本生まれだったんだね。

 

バレンタインデーについて

 バレンタインデーと言えば、言わずもがな、男子諸君の気持ちが浮き足立って、女子から声をかけられただけで心拍数が上昇してしまう例のイベントである。一年のうちで最も慎重に学校の下駄箱を覗き、一年のうちで最も周辺視野を使って近寄ってくる人に注意を払う。2/14を境に勝者と敗者が如実に分断され、1と0の差がこれ程までに大きいものなのかと、0の重みに打ちひしがれる。本命のチョコを1つでも貰えたならば、それから一年間、「貰えた者」として「貰わざる者」への優位性を勝ち取る。だが、現実はチョコレートとは違って甘くない。数多の「貰わざる者」達の屍の上に、限られた「貰えた者」達だけが君臨する。勝手に期待しておいて勝手に期待を裏切られた敗者達の心を少しでも慰めてくれるのは母お手製のチョコレートだけだった。

 

 そんな時代もありました。今ではわざわざバレンタインデーに告白する子も珍しい。2/14に告白するのはもう時代遅れでダサいらしい。いまどき、本命チョコを渡すのは彼氏がいるような子だけなのだろう。義理チョコ、友チョコ自分チョコ。バレンタイから色恋の雰囲気が薄まり、チョコのお祭りみたいになってきたことは、冴えない僕らにとっては良い変化だ。

 

 バレンタインには、手作り既製品論争がついてくる。手作りは気持ちがこもっている、既製品は確約された味、どちらの意見も賛同できる。正直、貰う側としての僕の意見はどちらでも良い。手作りなら、わざわざ手間と時間かけて作ってくれてありがとう、となるし、既製品だとしても、種類のたくさんある中からそれを選んでお金をだして買ってくれたんだありがとう、となるし。僕はただただ貰えるだけで嬉しいらしい。「チョコを溶かして成形しただけの手作りのやつもらった」「既製品は買って渡すだけだから手抜きだろ」と文句を男子も世の中にはいるだろう。そういう方々は1ヶ月後に自分に同じことを言われないだけのお返しをすることができるのだろうか。チョコを貰える特別性と、くれた人への感謝を見逃してないか、なんて思ったりもする。

 

 よく、手作りと愛情が結びつけられるが、それについて少し考えてみた。作り手が愛情を込めて作った、と言った場合はどうだろう。おそらく、食べてくれる人の舌に合うように考えて、その人の食べる姿を想像して、おいしいと思ってくれることを期待して作るのだろう。でも、それは作る側の頭の中で起きていることで、作られる側は頭の中を覗かないかぎり、知り得ないことだ。自分が愛情を込めて作ったとしても、相手に伝わるとは限らない。一方、食べる側はどうやって愛情を感じ取るのだろう。作ってくれた手間暇を想像して、そして自分のために作ってくれたという特別性を感じ取って食べるのだろう。でも、それは想像の域を出ない。作り手からダイレクトに明確な愛情を受け取るわけではない。うむ、難しい。仮に、代わりに母に作ってもらったチョコをあげたとしても、もらった側は同じように想像し愛情を感じるだろう。

 そうなると、そこには確かに愛情があった、と言えるのは作り手だけになる。愛は受け取るものではなく、与えるもの。やはり、そういうことらしい。

 そもそも愛情がよく分かっていない僕からしたら、少し難しいお話ですね。

 でも、いくらまずくても、「カカオ豆から仕入れて作ったチョコです!」なんて言われたら、無条件で愛情みたいなものを感じちゃいそうだが。

 

 

 昨日の小学生の弟の収穫は0。うちの男達は今年”も”チョコをもらえなかったらしい。

  母からを除けば。