インド旅行について(出発前夜編)

 何故インドなのか。そう問われれば、理由は2つある。第一に学生の身分のため、とにかくお金がない。3年前に魅了されたアメリカ、人々の熱気が溢れんばかりの中南米、洒落た街並みと文化のヨーロッパ、行きたいところは他にもあった。ただ航空機代、物価その他諸経費を考えるとアジアが第一候補にあがってくる。しかし、アジアも広い。魅力的な旅が待っている国はいくらでもある。ここで第二の理由が僕をインドへ導いた。いたって単純明解な理由。インドが一番刺激的そうだった。これに尽きる。生活に根付いている宗教、道を行き交う数多の人と車とバイク、日本より低い生活水準。日本にいたら決して見ることも経験することもできないような何かがそこにはあるはずだ。日本とは違う世界で生きる人の強さのようなものを見たかったのかもしれない。一度考え始めたら、インドへの期待感は膨れ上がり、大学在学中にインドには必ず行くと決心させた。2018年の2月に念願叶って僕はインドへ旅立った。

 僕は一人旅の良さを感じたことがない。とは言うものの、一度しか一人旅をしたことがないから分からなくてもおかしくはないのかもしれない。3年前のアメリカの時である。今考えれば、英語に自信がなく消極的な旅になっていたからなのかもしれない。好奇心を原動力に自ら外へ積極的に干渉することが一人旅を有意義にする方法のひとつなのかもしれない。しかし、それができたとしても、宿での寂しさは緩和できるのかどうかは不明である。大抵の国では夜は出歩くな、とガイドブックに記載されているので自然と宿に帰る時間は早くなる。その微妙に余った時間に寂しさは僕の心の隅っこをつついてくる。当時はテレビを見るくらいしかやることがなかった(海外でのテレビも日本と全く違って悪くはない)が、今なら、旅のログをつけるとか、旅のお供の本を読むとか、いろいろ出来そうだ。上記2つをクリアしたとしてもどうにもならない一人旅最大のデメリットがある。感動、興奮、落胆、衝撃を誰かと共有できないということだ。一人で盛り上がることもできず心の中にそっとしまっておく。これがまた寂しいのである。

 なので、インドへは誰かを連れて行くことは決めていた。一緒に行ってくれる人がいなかったら、今回は延期だな、とさえ思っていた。2週間ほどの滞在を希望していたので、お供選びには慎重にならなければならなかった。旅先での衝突はできるだけ避けたい。旅の前半で大喧嘩でもしたら、考えただけでぞっとする。気をあまり遣わず、お互い意見を言い合える仲でないと旅行は無理だ。仲のいい友人のうち、海外旅行に付き合ってくれる見込みのありそうな人に連絡をした。まず、高校の同級生二人に声をかけた。しかし返答は芳しくなかった。ひとりは就活で忙しい、ひとりはクロアチアに行きたいからインドなんて行っていられない、とのこと。次に中学の同級生を誘ってみるも金銭的に厳しいと却下される。友達が少ないことで有名な僕はここで手詰まりになった。三人で終わりである。前述した通り、一人旅にするつもりは毛頭なかったので、その時は悔しながらも今年のインド旅行は無しかと諦めた。

 しかし、最終的に運命は僕をインドまで導いてくれたのである。転機は年末、高校の同窓会の日に訪れた。同窓会終了後、そのまま二次会として3年時のクラスで飲み会が開催された。募る話もあるかと思われたが、前回の同窓会から2年間しか空いていなかったし、一次会でもクラスの人らと話していたので、もう満足した僕は飲み会が終わる前に途中退室し一人、駅に向かった。一人駅のホームを歩いていると、後ろから名前を呼ばれたような気がした。酔っていたこともあり、気のせいだと思いその時は振り返らず歩みを止めることはなかったが、三回も呼ばれると流石に振り返らざるを得ない。僕を呼んでいたのは、クロアチアに行くからとインドを断った友人だった。彼は同窓会には来ないと言っていたし、実際に一次会にはいなかったので何故彼が駅にいるのか不思議だった。聞いてみると、彼は同窓会に行かないメンバーで食事をしていたらしい。そこにたまたま僕を見かけて声をかけたとのこと。彼とは途中まで同じ方向なので一緒の電車に乗り込み、同窓会楽しかったぞと煽ったりしていた。そこでクロアチアはいつから行くのかと尋ねると、彼と行くはずだった友人と旅の計画が進んでいなく流れるかもしれない、と彼は答えた。インドを諦めきれていない僕は千載一遇のチャンスだと確信し、ローカル電車に揺られながらインドの秘めたる可能性を説き、無事、彼を籠絡することに成功した。今振り返っても、偶然がうまく重なってくれたおかげでインドに行けたのだと思う。ここから、僕と友人Yとのインド旅行が幕を開けた。

 

就職について

※綺麗事多シ、注意セヨ

 

 中高大と友人に一度は言われたセリフがある。

「お前は普通に企業に就職する未来が見えない。」

僕を買ってくれているのか、はたまた社会不適合者だぞ、とオブラートに包んで貶しているのか。とにかく今の僕が言えることは、

「働きたくない!」

  僕は現在、大学4年生だ。院進するつもりなので就職活動というものは未知の世界である。何も知らないが故、社会一般の就活へのイメージと僕の就活へのイメージはほぼ同等のものだと思う。自分を押し殺してまで取り繕って、建前で塗り固め、等身大の自分に出番はない。それが悪いとかいうことではない。あくまでも個人的なイメージである。どうせ僕もその立場になれば、そうするだろう。でも、今からそんな就活のこと考えると辟易する。そこまでやっても数多の会社に落とされ、社会からあなたは必要ないよ、と後ろから囁かれる。就活生は就活する前にメンタルを鋼製にでもしてるのではないかとさえ思う。ガラス製のまま挑んだが最後粉砕するのは目に見えている。

  本音を言えば、今やっている研究も本来のやりたいことではない。院進する(まだ受かってないけど)のは就職したくない、それにまだ学生でいたい、という甘えた理由からだ。仮に、楽しめるような、生きがいとなるような仕事に幸いにも就ければいいが、現実はそんなに甘くない。好きなことを仕事にするってこれほど難しいこととは思いもよらなかった。小学生の学習指導要領に追加すべきである。大半の人が経済性の安定を第一にあくせくと働いているように見える。ここまで僕を育ててくれた両親には感謝しているが、僕はそうはなりたくない。家庭を持ったら、また話は変わってくるのだろうけど、当分家庭など築く見通しは立っていない。就職なんてしても、使えるお金が増えるくらいしかいいことが思いつかない。だから、家庭を持たなければ一生フリーターでもいいかも、なんて考えに辿り着いてしまう。妻子持ちの未来を犠牲にして、独りで生活できるだけのお金と+αで一生好きなことやって暮らす生活も。

  以前、友人らと「大金持ちだったら、あえて働くか否か」という議論をしたことがある。もちろんお金さえあれば働かない、という友人もいたが、僕は条件付きの働くという回答だった。自分が情熱を注ぎ込めるような仕事を見つけられれば、いくらお金があったとしても働く、と。問題はそのような仕事をまだ見つけられていないことだ、もしかしたらそんなものは存在しない可能性すらある。働いてみたら意外と天職になることもあるかもしれない、その逆も然り。

  就活をするときに陥ってしまいそうな落とし穴をひとつ見つけたので言っておく。特に僕の周りの人たち(僕も含め)が引っかかってしまいそうなもの。それは学歴にすがらないこと。僕を例にとってみると、「機械工学の修士までいったのだから、技術職、研究職につかないと勿体無い。」これに陥ってしまいそうで僕は怖い。その時一番なりたいものが、ダイビングのインストラクターかもしれないし、水族館の飼育員かもしれないし、編集者かもしれない。他に情熱を注ぐ器が目の前にあっても、学歴にすがって本意ではない職についてしまう落とし穴。恐らく、自分が今一番目指しているところへ踏み出すのは勇気がいることだ。2年後の僕にその勇気があるのかどうか。

 

ハンカチについて

 「ハンカチを常備するのは紳士たる必要最低限の条件である」という実用的でとてもありがたいお言葉がある。ハンカチを持ち歩ていない紳士などイチゴの載っていないショートケーキくらいには存在しない。人はハンカチと共に生活することで初めて紳士に成り得るのかもしれない。ちなみに、上の言葉の出典は僕である。

 ハンカチを日常的に常備している男子がどれだけいるだろうか。かくいう僕も持ち歩いていない者の一人である。紳士には程遠い。トイレで手を洗えば、(ジェットドライヤーが無ければ)自然乾燥が当たり前。服の裾がハンカチの代打率第1位であろう。食事で口元が汚れても大抵の飲食店では、ちり紙が置いてある。無ければポケットティッシュ。ハンカチが必要かどうかと問われれば、答えはNoである。世の利便性が高まるにつれ、ハンカチの影は薄くなる一方だ。しかし、どの場面においてもハンカチを使う方がスマートではないか、と僕は思う。ここでハンカチの有用性について考えてみようと思う。

 まず、ハンカチが秘める可能性の大きさ。たかがハンカチと侮ることなかれ。いち庶民から、ハンカチ一つで王子まで上り詰めた人間がいる。恐るべきことだ。ポケットティッシュではきっとその高みまで到達することは不可能であっただろう。ポケットティッシュ男爵が関の山だ。恐らく、彼の両親はハンカチの可能性に気づき、彼を小さいころからハンカチに集中できる環境に置き、英才ハンカチ教育を施してきたのだろう。ハンカチ界の王子でありながら、野球もできるとは、天は二物を与えてしまっているではないか。

 次に日常的側面から考えていこう。先にあげたお手洗い後のハンカチの活躍は言うまでもない。と、ここまで書いて、日常使いの用途がそれ以外思いつかない。そもそもハンカチは手を拭くという目的を持った布ではないか。それ以外は臨機応変にきっと何かの役に立つ時があるだろう。きっと、、、

 さて、ハンカチの紳士性について。本来の用途である手を拭く行為にもハンカチがあるかないかで印象が変わってくる。異性とお出かけした時、手をぶらぶらと狂った指揮者のように振ってトイレから出て来る男と、ハンカチで上品に手を拭いて出て来る男、どちらが良いかは言うまでもない。トイレに限ったことではない。個人的な体験を言わせてもらえば、水族館でドクターフィッシュ体験をし、手を洗った後のこと。いつも通り、僕はハンカチを持っていなかった。同伴していた女の子は気を遣ってハンカチを貸してくれた。本来ならば、全く逆の立場でないといけないのではないか。僕の方が何も言わずハンカチスッて出すべき場面だったのだ。不甲斐なさで潰されそうだったことを覚えている。この出来事がハンカチの価値を見直した直接的きっかけである。

 想像してみよう。目の前で女の子が泣いている。ハンカチがない僕らに為す術はない。そこで服の裾を差し出して「涙ふけよ」というのは阿呆の所業だ。紳士ならハンカチスッが出来るのである。女の子が泣いている場面に遭遇することなどないかもしれない。しかし、いくら可能性が低いといっても、ハンカチを持ち、いつでも対応できる状態にある、その心意気そのものが、もう紳士なのではないか。そうなれれば、もう君も立派なハンカチ紳士だ。

 これだけ言っても尚、ハンカチを持ち歩いていない理由はハンカチが家にないのだ。きっと新しいハンカチを買えば僕もハンカチデビューが出来るはず。ハンカチはタオル生地のものは好きではない。ごわごわするし、かさばるし、何より子供っぽい。

 紳士にふさわしいハンカチを買いに行こう。どんなのか想像つかないけど。

少年期の読書体験について

 うちの母校では朝の10分間、読書タイムというものが存在した。小学生低学年のころ、何を読んでたのか全く思い出せないが、寝るかおしゃべりするかしてたのだろう。本を読んでいなかったことは確かだ。活字に触れる機会は授業で使う教科書くらいのものだった。初めてフィクション、その当時の言葉を借りれば「字ばっかりの本」を最初から最後まで1冊読みきったのは小学3年生のことだった。

 3年生になると図書館ツアーが催される。授業としてなので強制参加である。初めて図書館に足を踏み入れた。壁一面に本が敷き詰められた部屋、本と貸し出し用のパソコンのみが置かれた静かな時間の流れる部屋。ワクワクもなければ何の面白みも感じず、授業がつぶれてラッキーだったくらいにしか思っていなかった。ツアーの後半、本の借り方を覚えるため、気になる本を1人1冊借りていきましょう、ということになった。確か、頭の良いハムスターの話が書かれた本を借りた。僕は翌朝からの読書タイムではその本を読んだ。それが初めての本だった。活字を読んで頭の中の想像だけで世界を構築するということが初めてで新鮮で、それもあってか退屈が顔を出すことは全くなく、すぐに読み終わった。ただ、本が好きになったわけではなく、そのシリーズを数冊読んだ後はまた本を全く読まなくなった。

 僕を本の世界へ導く転換となった本が2つある。ひとつはミヒャエル・エンデの「はてしない物語」である。小学6年生に読んだ。児童文学の名作であり、この本に出会ってなかったら僕の世界に本が登場することもなかったかもしれない。ファンタジーにハマるきっかけにもなった。詳しくは割愛するが、この本の素晴らしいところは、主人公がまさにその「はてしない物語」を読んでいるのである。そして、僕ら同様、「はてしない物語」の一読書でしかなかった主人公が本の中に入って、「はてしない物語」の登場人物となる。実際に僕が本の中に入ることは不可能ではあるが、本の世界に入り込むという感覚を初めて体験させてくれたお話である。現実世界のあらゆるものは一時遮断され、目から得た活字の情報だけを頼りに頭の中で、もうひとつの世界を作り上げ、登場人物と共に冒険を繰り広げる。こんなに楽しいことが世の中にあったのか、と感動すら覚えた。この本との出会いをきっかけに、読みたい本があれば学校の休み時間や家で暇なときに本を開くようになった。僕は積極的読者となった。

 もうひとつは村上春樹の「ノルウェイの森」である。この本を読むまでは児童文学ばかり読んでいて、ノルウェイの森を機に書店で並べられているような文庫本を読むようになった。中学2年生だった。その当時、別に村上春樹なんて知らなかったし、ノルウェイの森が話題になっていたわけでもない。一番仲の良かった女の子、のちに僕の恋人となる子が貸してくれたのがきっかけだ。読み始めの動機としては話を合わせられるから、程度だったのだが読んでいくうちに気づけば村上春樹の文章の虜となった。構成やプロットではなく、文章そのものに面白さを見つける初めての体験だった。アニメに例えれば、話の筋だけでなく、作画のひとつひとつに関心を持つようになったと言えば分かりやすいか。ノルウェイの森の主人公が「グレートギャツビーの適当に開いた1ページだけを読む」という場面がある。僕にとって村上春樹の本も同じようなことをして楽しめる。使われるレトリックや言い回し、行間の隠れた言葉に魅力を感じる。初めての村上春樹作品であり、初めての恋人との接点でもあるノルウェイの森は僕にとっては大切で重要なお話である。

 以上が、別に読書家でもなく、人並みには本を読むただの読書好きの読書体験である。

 本を読みましょうとは言わないが、本と距離がある人はまだきっかけとなる本に出会えてないだけ。読めばきっとみつかるはず。あなたの1冊が。

辛いものを食すことについて

「それは潜在的にMの気があるからじゃないのか」辛いものを食べたいと言った僕に対する友人の言葉である。この場合の辛いものというのは激辛のものに限定される。わざわざ苦しんで食べ物を食べるという行為が理解できなくての一言であろう。マラソンを走ったと言っても同じことを言われることがある。何故、自分からわざわざつらいと分かっているのに走るのか、と。「つらい」も「からい」も「辛い」なのだ。

そもそも前提として辛い食べ物が好きだ。理由は深くは考えたことはないが、恐らく(味覚的)刺激が欲しいということだと思う。

かけうどんには一味唐辛子をこれでもか、という程かけるし、カレー(特に食堂とかのカレー自体を楽しむ以外のカレーの場合)にも、ナポリタンにチーズをかける感覚で降りばめる。一味唐辛子というのは料理のグレードをワンランク上げてくれる魔法の調味料ということになる。逆に言えば、美味しさを目当てにしている料理には一味唐辛子は必要ない。

激辛料理への欲求は辛いもの好きの延長として自然の成り行きである。食べるというお手軽な行為で最高の刺激を享受できる。

まず、目からの刺激。激辛と冠するものは大抵が禍々しい体をなしている。真っ赤、どろどろ、その様は物にも依るが、見るものすべてを一瞬怯ませる。タダでは食べられないぞ、さぁ食べれるものなら食べてみろ、という脅迫的な何かさえ感じさせる。そして、鼻からの刺激。匂い。もとい、臭いの方が正しいかもしれない。口に入れるまでもなく鼻の粘膜を攻撃してくる。脳は本能的に食べてはいけないものだと判断する。最後に、舌からの刺激。最も直接的で最もインパクトのある刺激。それはもう痛みである。口の中は刺激が踊り狂うクラブハウス。辛さによるダメージは食べ進めるに従い蓄積されてゆく。そして、「からい」は「つらい」へと変遷してゆく。体のあらゆる汗腺から汗を吹き出し、口の中の激しい痛みに耐えながら最後の一口を迎えるまで闘い続けるのだ。

激辛への追求には良いことは無いように思われる。しかし、激辛と向き合っている間は頭の中は刺激に支配され、それを食べきるということだけに意識を向けられる。日頃の悩み、ストレスなどを感じとる暇は与えられない。極論、ただのストレス発散行為なのかもしれない。あまあまのあまのパンケーキを食べてストレス発散ができるなら、からからのからの劇物を食べてストレス発散する道理も通るはず。

 

辛いものに関しても僕はまだアマチュアの域を出ないので、本当の激辛に出会ったことは未だない。一口目にして、これ以上食べるのは無理だ、と思わせる地獄を見るような激辛料理に出会ってみたい。

鼻について

「よく鼻血が出る人いるでしょ?あれは鼻腔内に毛細血管が張り巡らされているからなんだけど、何でそういう構造になってるか分かる?寒い所で口呼吸すると肺が痛くなる感覚を味わったことがあると思うけど、鼻呼吸をすると大丈夫なんだよね。口呼吸と鼻呼吸では肺に空気が到達するまでに1秒くらいラグがあって、鼻から吸引された冷たい空気は鼻腔の毛細血管で温められて肺へのダメージを軽減できるってわけ」

 以上、医学科の友人が、わざわざインドで教えてくれた鼻のまめ知識。

 僕について語るとき、鼻は切っても切り離せない話題である。自分の鼻については何も語ることはない。特別素晴らしい鼻を持っているとも思わないし、コンプレックスがあるわけでもない。他人の鼻が問題である。人の容姿について語るとき、鼻は大きなウエイトを占めてくる。この人の鼻素敵だな、って思う人は問答無用で僕からの好感度が上がってしまう。たかが鼻が良い形をしているだけなのに。爪と違って違和感や嫌悪感を抱くことはない(一般的で特異でない鼻なら)。鼻に惚れるってだけである。

 鼻は顔のどこについているかご存知?そう顔の中心である。顔のパーツで鼻が重要なのは自明のことである。鼻がどれだけ重要かがピンと来ていない読者諸賢は某名前を口にしてはいけない闇の帝王を思い浮かべてくれれば鼻が如何に重要か、お分かりいただけるだろう。闇の帝王ともなれば鼻がないことなど、取るに足らぬことなのかもしれないが。しかし、いつも思うのは、あれじゃ眼鏡掛けられないなぁと。

 どういう鼻がいいのか理論をまだ自分の中でも昇華できていない。見て、好きか否かの判断しかできない。とどのつまり、まだ僕はアマチュアということだ。しかし、まあ、鼻のプロになるつもりもないので、自分の好きな鼻が判別出来るだけで満足である。

 1つ分かってることは、存在感が重要だということだ。全国の小さい鼻クラブの皆さんを貶しているわけでなく、個人の好みの問題として。今まで出会った美鼻はいずれも鼻の主張の塩梅が丁度いい。顔として認識される前に鼻が1つの存在として認識される必要がある。しかし、高すぎても大きすぎてもシャープすぎてもダメなのだ。もうこれはどの程度どうだといいとかいう問題ではなく僕には経験からくる判断しかできない。芸能人でいうと仲里依紗能年玲奈がとてもとても素敵な鼻をしているので参考までに。

 万城目学の著書『鴨川ホルモー』の主人公も確か鼻好きだった気がする。僕の他には、彼しか鼻同業者を知らないので現実世界にいないことが大変残念である。鼻談義に花を咲かせたかった。鴨川ホルモーを読むことで、僕が素敵な鼻に出会ったとき、どのように感じるのかを部分的にではあるが理解できると思うので、鼻に目覚めかけてる人は一読することを勧める。

温水洗浄便座について

 温水洗浄便座と聞いてすぐに何のことか分かる人は、今まででトイレと接する機会があった人だろう。ウォシュレットと聞けば、ほぼ全ての日本人が共通の概念として頭に思い浮かべられるはずだ。ただウォシュレットはTOTOが販売している温水洗浄便座の商品名である。ツナ缶をシーチキンと言い、ステイプラーをホッチキスと言うのと同じことである。とは言いつつも、僕も日常会話ではウォシュレットで通している。改めて考えてみれば、洗浄用ノズルと便座は一体化しているので便座と名付けるのは間違ってはいないのだが、どうもノズル=ウォシュレットと僕の頭には植えつけられているので、便座という名前には違和感がありウォシュレットの方がしっくりくる。それがLIXIL製のものでもPanasonic製のものでも、誰が困るわけでもなかろう。ただ今回は便宜上、温水洗浄便座として書くことにする。ちなみに、ウォシュレットは”Letʼs wash”という駄洒落らしいのだがいい響きだと思う。
 今、あなたがいる場所から一番近いトイレに向かったとする。恐らくそのトイレには温水洗浄便座が設置してあるだろう。今や、温水洗浄便座の普及率はかなり高いものになっていて、新しめのトイレなら確実に洗浄機能がついている。にも関わらず、温水洗浄便座は使わない及び使ったことがない派が一定数いるのはどうも不思議でならない。そう、僕は温水洗浄便座肯定派である。
 僕と温水洗浄便座の初めての共同作業は中学生の頃だった。小学生高学年で引越しをして、新居には温水洗浄便座付きトイレがあったため存在自体は知っていた。しかし、数年間は顔見知りの状態が続いた。温水洗浄便座も僕と同じくシャイだったのだろう。彼女から「私を使ってみてよ」と言われることもなく僕から「あなたを使わせてくれないか」と切り出すこともなかった。ある日、友人との会話で温水洗浄便座の話題になり、「あいつ使ったことないの?めちゃくちゃいいぜ。もったいない」という言葉で僕は彼女を意識せざるを得なくなった。帰宅後、意を決してトイレへ向かう。僕の気持ちは既に固まっていた。用を足し、おしりと書かれたボタンに目をやる。もう迷いはなかった。ボタンを押すとウィーンという機械音がトイレの中で鳴り響き、数秒後には僕と彼女はランデブーしていた。彼女から発射された温水は僕のおしりを優しく包み込んだ。まるで彼女は、無視し続けた僕を許してくれているようでもあった。あの初めての感動となぜ今まで使ってこなかったのかという後悔を忘れることはない。それ以来、僕は彼女の虜だ。
 この記事を読んでいる温水洗浄便座否定派のあなた。もう一度、彼女たちのことを見直して、しっかり向き合ってみてはいかが。