他人の爪について

 以前、自分の爪については書いたので今回は他人の爪についてどう思っているかを書こうと思う。

 他人の爪をじっくり観察する機会はそれほど頻繁にあることではない。相手の手をとって、爪の細部まで舐め回すように見るなどという状況は恋人同士でしか発生しないのではないか。そして恋人同士ならそのまま舐めてしまう。だがしかし、相手の爪を見るというのは恋人がいる者の特権だという社会通念を覆す方法を僕は見つけた。ただこう言えばいいのだ。「爪をみせてほしい」と。何故という不思議な顔はされるだろうが、どんな人でもきっと爪をみせてくれることだろう。僕を除けば。

 ある日、自分の爪を不名誉に思っている僕は、爪の話をした際にその場にいた友人数人に彼らの爪をみせてもらった。そこで今までほとんど自分の爪しか見てこなかった僕は圧倒的な事実と直面することになった。

 人の爪は気持ち悪い。その場にいた誰もが一人として同じ爪を持っていないにも関わらず、誰の爪を見ても気持ち悪さがジワジワと込み上げてきた。決して、彼らの爪が僕の爪以上に醜いと言っているのではない。どの爪も社会で堂々と胸を張って生きていけるだけの爪である。しかし、気持ち悪い。感覚としては異形のものを見てしまった時と同じ感覚であろう。ただ、今まで知的生命体を人類しか見たことがない僕らが、火星人と遭遇してしまった、というのとは少し訳が違う。友人たちの指先の上にあるのも自分と同じ爪なのである。同じ進化の末、同じ機能を持って、同じ役割を果たしている爪である。なのに、そこに爪があるのが相応しくないような違和感があるのだ。

 友人たちに「人の爪って気持ち悪くないか?そう感じるのは僕だけ?」と尋ねたところ、同意を得られたので、少なくとも僕だけの感覚ではなかったようだ。しかし、安心はしていられない。その感覚が僕だけのものではないとするなら、他人から見た僕の爪も気持ち悪いということだ。不幸にも僕の不格好な爪を見てしまった日には、爪に追いかけられ捕まったら自分の指の爪が全て僕の爪になってしまうという悪夢に苛まれることになるので、くれぐれも僕の爪は見ないよう注意喚起しておく。

 では、何故、人の爪がそんなにも気持ち悪く見えてしまうのか。僕なりの解釈をしてみる。概念としての爪は皆、共通認識であろう。相違点は人の爪を観察する機会の少なさにあると考える。人の爪を見るといっても、日常生活では爪は手の一部として目に入ってくるくらいで細部や色艶、形までみる人はいないはずだ。そうなると、知っている爪の個体が自らの物に限定されてしまい、それが人の爪を見た時の違和感を引き起こすのだろう。簡単に言えば、自分の爪に見慣れすぎて人の爪は何か違うな状態、ということだ。

 人の爪が気持ち悪いということを発見してからは、時々、人に爪を見せてもらって僕の中の爪個体データをストックしている。しかし、爪鑑定士までの道のりは遠く、未だに見慣れることはない。ただ、綺麗な爪に対しては気持ち悪さを感じないことはわかった。好感さえ持てる。特に女性のほうが綺麗な爪をもっている人が多い。女性のほうが男性よりも爪の手入れをしていることにも納得がいく。綺麗な爪はひとつの武器になるな、と思ったりもした。これだけあれこれと爪に関して考えていると、新たなフェティシズムの扉が開かれそうで心配になってくる。え、もう半分開いてるって?

 前回と今回で爪に関して述べてきた。これを機に自分の爪であれ他人の爪であれ、見直す良い機会になってくれると幸いである。知り合いに爪が綺麗な女性がいたら是非とも紹介して頂きたい。爪鑑定士への一助とするだけで、決して目の保養などという利己目的ではない。

自分の爪について

 僕は自分の爪の形が好きではない。特に指の爪である。かといって、足の爪に自信があるわけでもない。ただ、人前に晒す機会が多いか少ないかの問題である。僕の爪は深爪で横に平べったく、表面には縦に筋が入り、でこぼこしている。

 爪を気にしだした高校生くらいの頃に、これは父親譲りのものであると知った。母親の爪は綺麗とは言えないが少なくとも縦の方向に長い。兄弟の中では僕の爪だけが父親似で、弟たちは皆、母親のような普通の爪、少なくとも爪の形に悩まされることは今後ないであろう爪を授かったようだ。

 運悪く父親の爪に似てしまったという遺伝的でどうしようもない要因もあるが、思い返してみれば、幼少期の癖が深爪に関しては影響している気がする。僕は爪切りをしない子供だった。正確には、爪切りを使って爪を切らない子供だった。爪を噛むという癖は世間でも見聞きするが、僕の場合は爪をむしるということを日常的にしていた。どういうことかというと、爪をむしったことのある人ならばお分りいただけると思う。むしりたい爪の端にもう一方の手の親指の爪をちょうど爪同士がクロスするように引っ掛けて切り込みをいれる。あとは端から両面テープの紙部分を剥がすようにスーッとむしり取るだけである。いつでもどこでも爪切りを使うことなく爪の処理ができるので、当時の僕は爪切りの必要性を全く感じなかった。

 この手法の悪いところは、切断ではなくむしりとる、もしくはめくっているので、切り口が綺麗な弧を描かず見栄えが悪いということである。それに加え、うまくむしらないと、爪上部の白いところだけでなく、爪と指との癒着部までめくれてしまうという難点がある。かなり痛い。爪をもいでいるわけだから。この行為の繰り返しのせいで爪と指の癒着部面積が減少していき、深爪になっていたのだろう。それでも小学生高学年まではこの癖とともに生活してきた。

 爪切りで爪を切ることを覚えてからも、爪切り自体は好きになれず伸ばしに伸ばしてから切っていた。しかし、長い爪にともなう弊害として爪が折れるというのに何度か困らされ、それが嫌で今では爪は短く保つよう気付いた時に切るようにしている。携帯用爪切りも持ち運んでいるため、幼少期と同じくいつでもどこでも爪を切ることができる。

 爪切りを駆使することで晴れて文明人の仲間入りを果たしたとはいえ、自分の爪の形に不満があることには変わりない。僕の爪はあまりジロジロみないようにしていただきたい。

ブログ開設経緯解説

  ブログというものをやるのは約5年ぶりになる。僕のブログ処女航海は中学生の頃まで遡る。何故やり始めたのか、誰が言い出したのかは忘れたが仲の良い友人たちと共同ブログをやっていた記憶がある。しかし、先生を巻き込む抗争(詳しくは割愛)の末、学年主任によりブログ禁止令が強行裁決され初めてのブログは幕を閉じた。これがブログ第一期である。

 その後、中学三年の頃に、個人でアメブロを使ってブログを始めた。Twitterもまだ普及していなかった頃、発信する場が欲しかったのだろう。この時代の僕は人生で最もアニメ文化に触れていた時期であり、「唯は俺の嫁」などと、今となっては恥ずかしくてお金を貰ってでも見返したくないような文を書いていた。ちなみに、唯ちゃんはアニメ『けいおん!』の平沢唯である。もう嫁ではないので、唯は俺の前妻、ということになる。元気でやっていることを祈る。この時期のブログは中学卒業と同時に書かなくなりやめてしまった。ブログ第二期である。

 その後、高校の友人と共同ブログをやることになる。学年で流行ってたから、僕らもやろうということで始めた。高校時代はいい意味でも悪い意味でも傍若無人を極めた奴認定を受けていたので、ブログの内容もネットにおける倫理観、道徳などおかまいなしだった。内輪ネタが主だったが、ただただ面白さ、主に男受けする面白さを追求して書いていた。一度、自分の自慰とティッシュの耐久性について書いた時は、廊下で声をかけてもらえるくらいには好評だった。これも友人らと違うクラスになることで自然消滅していった。ブログ第三期である。

 そして、今回に至る。第四期。さて、ブログ開設の経緯であるが、文章を書きたかった、無から有を作り出したかった、考えをまとめる場が欲しかった。Twitterでも良さそうだが、あれは脳死で書き込むものである。

 考えをまとめるということに関しては、役に立つと予想している。僕は口下手なのでブログで考えをまとめておけば、いざ話す時に言葉が出やすいのではないかと。対象は僕のブログを読んでない人限定になってしまうけど。Twitterでしか広報しないし、そのTwitterは鍵垢だし、そもそも、みんな僕の文を読んでくれるほど暇を持て余してなさそうだし。勝手にやって勝手終わる完全自己満足のブログ。なので、閲覧するのもご勝手に。改行したほうがブログとしては見やすいのだろうけど、自己満足なのでしない。

 ブログの形式はエッセイ風にするつもりだ。あくまでも、エッセイ"風"である。初めから大層なエッセイが書けるとは思っていない。これはエッセイなのか?と首を傾げたくなるような文章も書いてしまう気がする。なので風にしておく。

 誹謗中傷、批判、批評、否定、一切受付ません。心が人より弱いので。

あについて

ああああ

ああああああああああああああああああ

ああ

ああああああああああああ

あああああああああああああああああ

あああああああ

ああああ

あああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 

 

 

 

 

 

あっ