辛いものを食すことについて

「それは潜在的にMの気があるからじゃないのか」辛いものを食べたいと言った僕に対する友人の言葉である。この場合の辛いものというのは激辛のものに限定される。わざわざ苦しんで食べ物を食べるという行為が理解できなくての一言であろう。マラソンを走ったと言っても同じことを言われることがある。何故、自分からわざわざつらいと分かっているのに走るのか、と。「つらい」も「からい」も「辛い」なのだ。

そもそも前提として辛い食べ物が好きだ。理由は深くは考えたことはないが、恐らく(味覚的)刺激が欲しいということだと思う。

かけうどんには一味唐辛子をこれでもか、という程かけるし、カレー(特に食堂とかのカレー自体を楽しむ以外のカレーの場合)にも、ナポリタンにチーズをかける感覚で降りばめる。一味唐辛子というのは料理のグレードをワンランク上げてくれる魔法の調味料ということになる。逆に言えば、美味しさを目当てにしている料理には一味唐辛子は必要ない。

激辛料理への欲求は辛いもの好きの延長として自然の成り行きである。食べるというお手軽な行為で最高の刺激を享受できる。

まず、目からの刺激。激辛と冠するものは大抵が禍々しい体をなしている。真っ赤、どろどろ、その様は物にも依るが、見るものすべてを一瞬怯ませる。タダでは食べられないぞ、さぁ食べれるものなら食べてみろ、という脅迫的な何かさえ感じさせる。そして、鼻からの刺激。匂い。もとい、臭いの方が正しいかもしれない。口に入れるまでもなく鼻の粘膜を攻撃してくる。脳は本能的に食べてはいけないものだと判断する。最後に、舌からの刺激。最も直接的で最もインパクトのある刺激。それはもう痛みである。口の中は刺激が踊り狂うクラブハウス。辛さによるダメージは食べ進めるに従い蓄積されてゆく。そして、「からい」は「つらい」へと変遷してゆく。体のあらゆる汗腺から汗を吹き出し、口の中の激しい痛みに耐えながら最後の一口を迎えるまで闘い続けるのだ。

激辛への追求には良いことは無いように思われる。しかし、激辛と向き合っている間は頭の中は刺激に支配され、それを食べきるということだけに意識を向けられる。日頃の悩み、ストレスなどを感じとる暇は与えられない。極論、ただのストレス発散行為なのかもしれない。あまあまのあまのパンケーキを食べてストレス発散ができるなら、からからのからの劇物を食べてストレス発散する道理も通るはず。

 

辛いものに関しても僕はまだアマチュアの域を出ないので、本当の激辛に出会ったことは未だない。一口目にして、これ以上食べるのは無理だ、と思わせる地獄を見るような激辛料理に出会ってみたい。

鼻について

「よく鼻血が出る人いるでしょ?あれは鼻腔内に毛細血管が張り巡らされているからなんだけど、何でそういう構造になってるか分かる?寒い所で口呼吸すると肺が痛くなる感覚を味わったことがあると思うけど、鼻呼吸をすると大丈夫なんだよね。口呼吸と鼻呼吸では肺に空気が到達するまでに1秒くらいラグがあって、鼻から吸引された冷たい空気は鼻腔の毛細血管で温められて肺へのダメージを軽減できるってわけ」

 以上、医学科の友人が、わざわざインドで教えてくれた鼻のまめ知識。

 僕について語るとき、鼻は切っても切り離せない話題である。自分の鼻については何も語ることはない。特別素晴らしい鼻を持っているとも思わないし、コンプレックスがあるわけでもない。他人の鼻が問題である。人の容姿について語るとき、鼻は大きなウエイトを占めてくる。この人の鼻素敵だな、って思う人は問答無用で僕からの好感度が上がってしまう。たかが鼻が良い形をしているだけなのに。爪と違って違和感や嫌悪感を抱くことはない(一般的で特異でない鼻なら)。鼻に惚れるってだけである。

 鼻は顔のどこについているかご存知?そう顔の中心である。顔のパーツで鼻が重要なのは自明のことである。鼻がどれだけ重要かがピンと来ていない読者諸賢は某名前を口にしてはいけない闇の帝王を思い浮かべてくれれば鼻が如何に重要か、お分かりいただけるだろう。闇の帝王ともなれば鼻がないことなど、取るに足らぬことなのかもしれないが。しかし、いつも思うのは、あれじゃ眼鏡掛けられないなぁと。

 どういう鼻がいいのか理論をまだ自分の中でも昇華できていない。見て、好きか否かの判断しかできない。とどのつまり、まだ僕はアマチュアということだ。しかし、まあ、鼻のプロになるつもりもないので、自分の好きな鼻が判別出来るだけで満足である。

 1つ分かってることは、存在感が重要だということだ。全国の小さい鼻クラブの皆さんを貶しているわけでなく、個人の好みの問題として。今まで出会った美鼻はいずれも鼻の主張の塩梅が丁度いい。顔として認識される前に鼻が1つの存在として認識される必要がある。しかし、高すぎても大きすぎてもシャープすぎてもダメなのだ。もうこれはどの程度どうだといいとかいう問題ではなく僕には経験からくる判断しかできない。芸能人でいうと仲里依紗能年玲奈がとてもとても素敵な鼻をしているので参考までに。

 万城目学の著書『鴨川ホルモー』の主人公も確か鼻好きだった気がする。僕の他には、彼しか鼻同業者を知らないので現実世界にいないことが大変残念である。鼻談義に花を咲かせたかった。鴨川ホルモーを読むことで、僕が素敵な鼻に出会ったとき、どのように感じるのかを部分的にではあるが理解できると思うので、鼻に目覚めかけてる人は一読することを勧める。

温水洗浄便座について

 温水洗浄便座と聞いてすぐに何のことか分かる人は、今まででトイレと接する機会があった人だろう。ウォシュレットと聞けば、ほぼ全ての日本人が共通の概念として頭に思い浮かべられるはずだ。ただウォシュレットはTOTOが販売している温水洗浄便座の商品名である。ツナ缶をシーチキンと言い、ステイプラーをホッチキスと言うのと同じことである。とは言いつつも、僕も日常会話ではウォシュレットで通している。改めて考えてみれば、洗浄用ノズルと便座は一体化しているので便座と名付けるのは間違ってはいないのだが、どうもノズル=ウォシュレットと僕の頭には植えつけられているので、便座という名前には違和感がありウォシュレットの方がしっくりくる。それがLIXIL製のものでもPanasonic製のものでも、誰が困るわけでもなかろう。ただ今回は便宜上、温水洗浄便座として書くことにする。ちなみに、ウォシュレットは”Letʼs wash”という駄洒落らしいのだがいい響きだと思う。
 今、あなたがいる場所から一番近いトイレに向かったとする。恐らくそのトイレには温水洗浄便座が設置してあるだろう。今や、温水洗浄便座の普及率はかなり高いものになっていて、新しめのトイレなら確実に洗浄機能がついている。にも関わらず、温水洗浄便座は使わない及び使ったことがない派が一定数いるのはどうも不思議でならない。そう、僕は温水洗浄便座肯定派である。
 僕と温水洗浄便座の初めての共同作業は中学生の頃だった。小学生高学年で引越しをして、新居には温水洗浄便座付きトイレがあったため存在自体は知っていた。しかし、数年間は顔見知りの状態が続いた。温水洗浄便座も僕と同じくシャイだったのだろう。彼女から「私を使ってみてよ」と言われることもなく僕から「あなたを使わせてくれないか」と切り出すこともなかった。ある日、友人との会話で温水洗浄便座の話題になり、「あいつ使ったことないの?めちゃくちゃいいぜ。もったいない」という言葉で僕は彼女を意識せざるを得なくなった。帰宅後、意を決してトイレへ向かう。僕の気持ちは既に固まっていた。用を足し、おしりと書かれたボタンに目をやる。もう迷いはなかった。ボタンを押すとウィーンという機械音がトイレの中で鳴り響き、数秒後には僕と彼女はランデブーしていた。彼女から発射された温水は僕のおしりを優しく包み込んだ。まるで彼女は、無視し続けた僕を許してくれているようでもあった。あの初めての感動となぜ今まで使ってこなかったのかという後悔を忘れることはない。それ以来、僕は彼女の虜だ。
 この記事を読んでいる温水洗浄便座否定派のあなた。もう一度、彼女たちのことを見直して、しっかり向き合ってみてはいかが。

他人の爪について

 以前、自分の爪については書いたので今回は他人の爪についてどう思っているかを書こうと思う。

 他人の爪をじっくり観察する機会はそれほど頻繁にあることではない。相手の手をとって、爪の細部まで舐め回すように見るなどという状況は恋人同士でしか発生しないのではないか。そして恋人同士ならそのまま舐めてしまう。だがしかし、相手の爪を見るというのは恋人がいる者の特権だという社会通念を覆す方法を僕は見つけた。ただこう言えばいいのだ。「爪をみせてほしい」と。何故という不思議な顔はされるだろうが、どんな人でもきっと爪をみせてくれることだろう。僕を除けば。

 ある日、自分の爪を不名誉に思っている僕は、爪の話をした際にその場にいた友人数人に彼らの爪をみせてもらった。そこで今までほとんど自分の爪しか見てこなかった僕は圧倒的な事実と直面することになった。

 人の爪は気持ち悪い。その場にいた誰もが一人として同じ爪を持っていないにも関わらず、誰の爪を見ても気持ち悪さがジワジワと込み上げてきた。決して、彼らの爪が僕の爪以上に醜いと言っているのではない。どの爪も社会で堂々と胸を張って生きていけるだけの爪である。しかし、気持ち悪い。感覚としては異形のものを見てしまった時と同じ感覚であろう。ただ、今まで知的生命体を人類しか見たことがない僕らが、火星人と遭遇してしまった、というのとは少し訳が違う。友人たちの指先の上にあるのも自分と同じ爪なのである。同じ進化の末、同じ機能を持って、同じ役割を果たしている爪である。なのに、そこに爪があるのが相応しくないような違和感があるのだ。

 友人たちに「人の爪って気持ち悪くないか?そう感じるのは僕だけ?」と尋ねたところ、同意を得られたので、少なくとも僕だけの感覚ではなかったようだ。しかし、安心はしていられない。その感覚が僕だけのものではないとするなら、他人から見た僕の爪も気持ち悪いということだ。不幸にも僕の不格好な爪を見てしまった日には、爪に追いかけられ捕まったら自分の指の爪が全て僕の爪になってしまうという悪夢に苛まれることになるので、くれぐれも僕の爪は見ないよう注意喚起しておく。

 では、何故、人の爪がそんなにも気持ち悪く見えてしまうのか。僕なりの解釈をしてみる。概念としての爪は皆、共通認識であろう。相違点は人の爪を観察する機会の少なさにあると考える。人の爪を見るといっても、日常生活では爪は手の一部として目に入ってくるくらいで細部や色艶、形までみる人はいないはずだ。そうなると、知っている爪の個体が自らの物に限定されてしまい、それが人の爪を見た時の違和感を引き起こすのだろう。簡単に言えば、自分の爪に見慣れすぎて人の爪は何か違うな状態、ということだ。

 人の爪が気持ち悪いということを発見してからは、時々、人に爪を見せてもらって僕の中の爪個体データをストックしている。しかし、爪鑑定士までの道のりは遠く、未だに見慣れることはない。ただ、綺麗な爪に対しては気持ち悪さを感じないことはわかった。好感さえ持てる。特に女性のほうが綺麗な爪をもっている人が多い。女性のほうが男性よりも爪の手入れをしていることにも納得がいく。綺麗な爪はひとつの武器になるな、と思ったりもした。これだけあれこれと爪に関して考えていると、新たなフェティシズムの扉が開かれそうで心配になってくる。え、もう半分開いてるって?

 前回と今回で爪に関して述べてきた。これを機に自分の爪であれ他人の爪であれ、見直す良い機会になってくれると幸いである。知り合いに爪が綺麗な女性がいたら是非とも紹介して頂きたい。爪鑑定士への一助とするだけで、決して目の保養などという利己目的ではない。

自分の爪について

 僕は自分の爪の形が好きではない。特に指の爪である。かといって、足の爪に自信があるわけでもない。ただ、人前に晒す機会が多いか少ないかの問題である。僕の爪は深爪で横に平べったく、表面には縦に筋が入り、でこぼこしている。

 爪を気にしだした高校生くらいの頃に、これは父親譲りのものであると知った。母親の爪は綺麗とは言えないが少なくとも縦の方向に長い。兄弟の中では僕の爪だけが父親似で、弟たちは皆、母親のような普通の爪、少なくとも爪の形に悩まされることは今後ないであろう爪を授かったようだ。

 運悪く父親の爪に似てしまったという遺伝的でどうしようもない要因もあるが、思い返してみれば、幼少期の癖が深爪に関しては影響している気がする。僕は爪切りをしない子供だった。正確には、爪切りを使って爪を切らない子供だった。爪を噛むという癖は世間でも見聞きするが、僕の場合は爪をむしるということを日常的にしていた。どういうことかというと、爪をむしったことのある人ならばお分りいただけると思う。むしりたい爪の端にもう一方の手の親指の爪をちょうど爪同士がクロスするように引っ掛けて切り込みをいれる。あとは端から両面テープの紙部分を剥がすようにスーッとむしり取るだけである。いつでもどこでも爪切りを使うことなく爪の処理ができるので、当時の僕は爪切りの必要性を全く感じなかった。

 この手法の悪いところは、切断ではなくむしりとる、もしくはめくっているので、切り口が綺麗な弧を描かず見栄えが悪いということである。それに加え、うまくむしらないと、爪上部の白いところだけでなく、爪と指との癒着部までめくれてしまうという難点がある。かなり痛い。爪をもいでいるわけだから。この行為の繰り返しのせいで爪と指の癒着部面積が減少していき、深爪になっていたのだろう。それでも小学生高学年まではこの癖とともに生活してきた。

 爪切りで爪を切ることを覚えてからも、爪切り自体は好きになれず伸ばしに伸ばしてから切っていた。しかし、長い爪にともなう弊害として爪が折れるというのに何度か困らされ、それが嫌で今では爪は短く保つよう気付いた時に切るようにしている。携帯用爪切りも持ち運んでいるため、幼少期と同じくいつでもどこでも爪を切ることができる。

 爪切りを駆使することで晴れて文明人の仲間入りを果たしたとはいえ、自分の爪の形に不満があることには変わりない。僕の爪はあまりジロジロみないようにしていただきたい。

ブログ開設経緯解説

  ブログというものをやるのは約5年ぶりになる。僕のブログ処女航海は中学生の頃まで遡る。何故やり始めたのか、誰が言い出したのかは忘れたが仲の良い友人たちと共同ブログをやっていた記憶がある。しかし、先生を巻き込む抗争(詳しくは割愛)の末、学年主任によりブログ禁止令が強行裁決され初めてのブログは幕を閉じた。これがブログ第一期である。

 その後、中学三年の頃に、個人でアメブロを使ってブログを始めた。Twitterもまだ普及していなかった頃、発信する場が欲しかったのだろう。この時代の僕は人生で最もアニメ文化に触れていた時期であり、「唯は俺の嫁」などと、今となっては恥ずかしくてお金を貰ってでも見返したくないような文を書いていた。ちなみに、唯ちゃんはアニメ『けいおん!』の平沢唯である。もう嫁ではないので、唯は俺の前妻、ということになる。元気でやっていることを祈る。この時期のブログは中学卒業と同時に書かなくなりやめてしまった。ブログ第二期である。

 その後、高校の友人と共同ブログをやることになる。学年で流行ってたから、僕らもやろうということで始めた。高校時代はいい意味でも悪い意味でも傍若無人を極めた奴認定を受けていたので、ブログの内容もネットにおける倫理観、道徳などおかまいなしだった。内輪ネタが主だったが、ただただ面白さ、主に男受けする面白さを追求して書いていた。一度、自分の自慰とティッシュの耐久性について書いた時は、廊下で声をかけてもらえるくらいには好評だった。これも友人らと違うクラスになることで自然消滅していった。ブログ第三期である。

 そして、今回に至る。第四期。さて、ブログ開設の経緯であるが、文章を書きたかった、無から有を作り出したかった、考えをまとめる場が欲しかった。Twitterでも良さそうだが、あれは脳死で書き込むものである。

 考えをまとめるということに関しては、役に立つと予想している。僕は口下手なのでブログで考えをまとめておけば、いざ話す時に言葉が出やすいのではないかと。対象は僕のブログを読んでない人限定になってしまうけど。Twitterでしか広報しないし、そのTwitterは鍵垢だし、そもそも、みんな僕の文を読んでくれるほど暇を持て余してなさそうだし。勝手にやって勝手終わる完全自己満足のブログ。なので、閲覧するのもご勝手に。改行したほうがブログとしては見やすいのだろうけど、自己満足なのでしない。

 ブログの形式はエッセイ風にするつもりだ。あくまでも、エッセイ"風"である。初めから大層なエッセイが書けるとは思っていない。これはエッセイなのか?と首を傾げたくなるような文章も書いてしまう気がする。なので風にしておく。

 誹謗中傷、批判、批評、否定、一切受付ません。心が人より弱いので。

あについて

ああああ

ああああああああああああああああああ

ああ

ああああああああああああ

あああああああああああああああああ

あああああああ

ああああ

あああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 

 

 

 

 

 

あっ