ある2月の午後にデートして思ったことについて

 僕は恋愛には向いていないようだ。またその結論に至ってしまった。向いていない、という言葉のニュアンスからは少しズレたところにあるのかもしれないけど。
 類は友を呼ぶ、ということわざは昔から使われているだけあって正しいらしい。僕の周りにも恋愛障害者特級ばかりいる。どうも、恋愛が難しい。逆立ちしてフルマラソン走る方がきっと容易い。しかし、こうなると、世の中には健常者の方が少ない可能性もあるにはある。階級に差はあれど、皆おなじ。ただ、周りが恋愛障害者で溢れているからといって、僕もその一員なのには変わりはない。
 何事にも向き不向きはある、とよく誰かが言う。そのまま受けとれば、恋愛に向いている人、いない人、というのがいても不思議ではない。でも、僕は向いているいない以前に、恋愛をする術や心構えみたいなものが人より足りていない気がする。そして、それは誰も教えてくれない。
 こんなことを言うと、
「俺なんて年齢=彼女いない歴なんだぞ、贅沢を言うな」
なんて言われそうだけど、別に贅沢を言ってるつもりはない。可愛くて面白くて趣味のあう恋人がほしいって言ってるわけじゃないんだから。僕自身に問題がある。

 その日はカレーを食べて京都をぶらぶら歩いて、またカレーを食べて、ぶらぶら歩いて、という日だった。楽しかったし、それなりにおしゃべりもしたし、恋人の知らなかった部分も少しは知れた。普通に考えれば、特に不満のないデートだった。
 でも、それを仲のいい友達とやっても、多分同じくらい楽しいだろうし、恋人のことを知れたのも会話の偶発的なもので、自分から知ろう知ろうとしてのことじゃない。きっと、楽しむウエイトが「デートの行程>彼女との時間」に知らず知らずのうちになってたんだろうな。どこに行くかは問題じゃなく誰といるかが重要、になっていないんだ。彼女の隣で歩いた道、会話のやりとり、一緒に食べたもの、で二人の歴史みたいな何かを作っていくという意識がない。
 決して、今の彼女に魅力がないからではない。きっとこれは僕自身が抱える問題なんだ。恋愛をする術を習得せずにここまで生きてきた故の結果。
 心の輪郭をそっとなぞるように彼女の在り方を探り、ひとつひとつ丁寧に壁を取り除いて彼女の核に歩み寄っていくような姿勢がきっと正しいんだろうけど、僕にはそのやり方がわからない。
 きっと、恋することは誰にでもできるんだよ。いつの間にか好きになってるんだから。勝手に恋に"落ちる"だけでいい。でも、愛するとなった途端、厳重に施錠された重くて分厚い鉄扉が僕の目の前に立ち塞がる。僕はそれを開けるための鍵がどこにあるのかもまだ知らない。仮に鍵が見つかったとしても、その扉を開けられるかどうかもわからない。
 恋愛の仕方を皆どこで学ぶのか。巷に流通する恋愛ノウハウ本には小手先のテクニックしか書かれていない。やっぱり、トライ&エラーを繰り返して自分ひとりで闘っているのかな。
 表面上だけ取り繕ってるカップルを演じることなら、きっと僕にもできるし、何も考えずにそうしている方が幸せなのかなと思うことがたまにある。それに、恋愛の仕方の答えのようなものを見つけたとしても、それが正解とも限らないし、そこがゴールでもない。もっと言えば、恋愛なんてしなければ、こんなこと考えずに済むわけだし、きっと僕には向いていないんだろうな。