バレンタインデーについて

 バレンタインデーと言えば、言わずもがな、男子諸君の気持ちが浮き足立って、女子から声をかけられただけで心拍数が上昇してしまう例のイベントである。一年のうちで最も慎重に学校の下駄箱を覗き、一年のうちで最も周辺視野を使って近寄ってくる人に注意を払う。2/14を境に勝者と敗者が如実に分断され、1と0の差がこれ程までに大きいものなのかと、0の重みに打ちひしがれる。本命のチョコを1つでも貰えたならば、それから一年間、「貰えた者」として「貰わざる者」への優位性を勝ち取る。だが、現実はチョコレートとは違って甘くない。数多の「貰わざる者」達の屍の上に、限られた「貰えた者」達だけが君臨する。勝手に期待しておいて勝手に期待を裏切られた敗者達の心を少しでも慰めてくれるのは母お手製のチョコレートだけだった。

 

 そんな時代もありました。今ではわざわざバレンタインデーに告白する子も珍しい。2/14に告白するのはもう時代遅れでダサいらしい。いまどき、本命チョコを渡すのは彼氏がいるような子だけなのだろう。義理チョコ、友チョコ自分チョコ。バレンタイから色恋の雰囲気が薄まり、チョコのお祭りみたいになってきたことは、冴えない僕らにとっては良い変化だ。

 

 バレンタインには、手作り既製品論争がついてくる。手作りは気持ちがこもっている、既製品は確約された味、どちらの意見も賛同できる。正直、貰う側としての僕の意見はどちらでも良い。手作りなら、わざわざ手間と時間かけて作ってくれてありがとう、となるし、既製品だとしても、種類のたくさんある中からそれを選んでお金をだして買ってくれたんだありがとう、となるし。僕はただただ貰えるだけで嬉しいらしい。「チョコを溶かして成形しただけの手作りのやつもらった」「既製品は買って渡すだけだから手抜きだろ」と文句を男子も世の中にはいるだろう。そういう方々は1ヶ月後に自分に同じことを言われないだけのお返しをすることができるのだろうか。チョコを貰える特別性と、くれた人への感謝を見逃してないか、なんて思ったりもする。

 

 よく、手作りと愛情が結びつけられるが、それについて少し考えてみた。作り手が愛情を込めて作った、と言った場合はどうだろう。おそらく、食べてくれる人の舌に合うように考えて、その人の食べる姿を想像して、おいしいと思ってくれることを期待して作るのだろう。でも、それは作る側の頭の中で起きていることで、作られる側は頭の中を覗かないかぎり、知り得ないことだ。自分が愛情を込めて作ったとしても、相手に伝わるとは限らない。一方、食べる側はどうやって愛情を感じ取るのだろう。作ってくれた手間暇を想像して、そして自分のために作ってくれたという特別性を感じ取って食べるのだろう。でも、それは想像の域を出ない。作り手からダイレクトに明確な愛情を受け取るわけではない。うむ、難しい。仮に、代わりに母に作ってもらったチョコをあげたとしても、もらった側は同じように想像し愛情を感じるだろう。

 そうなると、そこには確かに愛情があった、と言えるのは作り手だけになる。愛は受け取るものではなく、与えるもの。やはり、そういうことらしい。

 そもそも愛情がよく分かっていない僕からしたら、少し難しいお話ですね。

 でも、いくらまずくても、「カカオ豆から仕入れて作ったチョコです!」なんて言われたら、無条件で愛情みたいなものを感じちゃいそうだが。

 

 

 昨日の小学生の弟の収穫は0。うちの男達は今年”も”チョコをもらえなかったらしい。

  母からを除けば。