笑い上戸について

 笑い上戸、またゲラとも言う。笑い上戸の人が好きだ。会話に笑いがあるだけで心も軽やかになるし、場の雰囲気も変わってくる。笑いは伝染するので、相手が笑えばこっちも笑う。一緒にいて楽しいし、何を言っても笑ってくれるので自分も面白くなった気にさせてくれる。逆に笑わせる気でいたのに手応えが悪ければ、あぁ今の話は面白くなかったのか、他の人に話すときはもう少し工夫しよう、と思える。

 つい最近、人によって話題がすんなり出てくる人とそうでない人がいるのは何故だろう、と考えた時があった。それで一つの要因として挙がったのが、相手がゲラかそうでないか、である。笑いのハードルが低ければ、話し手も気楽に話せる。話題の幅も広がり、どうでもよいことでも話そうという気になれる。これがあまり笑わない人相手だと、この人は僕と話していて楽しいのだろうか、と思ってしまい、結果、取るに足らない話題は話しにくくなり、話題がなくなる。相手からの反応にも不安がある。「へー、そうなんだ」で終わらされてしまったら、もうライフはゼロだ。話すことを諦め、聞きに徹するしか道はなくなる。話し上手の人なら相手を選ばず話せるのだろうけど、生憎、僕は話し下手だ。気分が最高潮の時しか、会話回路フル回転までもっていけない。

 友人曰く、僕も割とゲラらしい。確かに昔と比べれば笑うようにはなったが、多分それは周りの友人たちが面白いからだろう。笑いの沸点が低いのでしょうもないことでも笑ってしまう。むしろ、しょうもなければしょうもないほど笑ってしまう。

 小学生高学年から中学生までの時代は、僕にとっての暗黒時代であり、親しい友人と話す時以外はほとんど笑わなかった。小学生高学年という多感な時期のこと。クラス替えが行われたら毎年の恒例で自己紹介カードを書く。そこには先生が撮った写真も載せられる。写真を撮る際、笑ってと言われるのは世の常で、僕も凝り固まった表情筋に喝をいれ笑顔を作った。自己紹介カード作成時、クラスメイトとちょっとした口論になり、僕の笑顔に文句をつけてきた。それ以来、「僕は笑わないほうがいいのか」と笑顔を作ることを躊躇うようになった。周りからはクールキャラとして見られるようになったが、ただ素直に笑えなくなっただけだった。変われたのは高校生になってからだった。高校では友人の感じもガラッと変わり、阿呆ばかりで、笑わないわけにはいかなかった。自分も阿呆になればなるほど笑いが起こる。モラル?倫理?そんなものかなぐり捨てて、面白さこそが正義だった。面白ければ周りの目など、どうでもよい、という考え方になり、そこでクールキャラは卒業した。高校時代がなければ今の僕もないといってもいい。

 誰かと話してて、「こういう時どんな顔すればいいかわからないの」と思っている人、

「笑えばいいと思うよ」