心の拠り所について

 僕は弱い人間だ。年を重ねるごとに肉体も精神も弱体化していっている。中高生時代の無双感は一体何だったのだろうか。あの頃は何でもできてしまうような、自分は他とは違うのだと本気で思っていた。膨れ上がりすぎた自尊心のせいだったのかもしれない。大きくなりすぎた実体のない自尊心も人生の難所を乗り越えることで人並みには萎んでいったと思われる。では、仮初めの自尊心で手に入れた仮初めの強い心が、その仮初めの自尊心を失ったらどうなるか。なにも残らないのだよ。そこで初めて自分は特別でない村人Aにすぎないと気づかされる。主人公気取りで10年以上プレイしてきた人生が実は村人の虚栄だったことを受け入れるまでには時間がかかった。

 そんな弱い村人目線で、心の拠り所と強さに関して考えてみる。

 現代のストレス社会を心の拠り所も持たず、淡々と生き続けるのには無理がある。日々の疲れ、鬱憤を癒してくれるもの、煩わしい種々のことを忘れさせてくれるものが必要だ。

 まず、心の拠り所の定義から。心の支えになるもの、癒し慰めてくれるもの。人それぞれに心の拠り所が存在するはずだ。家族なのかもしれないし、恋人や配偶者なのかもしれない。または、自分の夢であったり、趣味であったり。弱さにつながる心の拠り所がこの中にもある。それは他者を拠り所とするのにウエイトを置きすぎることだ。他者を心の支えにするのは比較的簡単に出来てしまうし、人との相互作用なので他のものと比べて満たされやすい。しかし、他者はいつまでも側にはいてくれない。いなくなる日が来る。突然何の準備もなくいなくなって、一番の拠り所を失った人間には頼るべき拠り所もなく、待っているのは絶望だ。恋人を例にとってみても、どっぷりと心を委ねている時に破局でもしたら、世界が終わったとまで感じさせてしまうくらいには危うい。この危うさが弱さにつながる。絶望的な状況にこそ安定的な心の拠り所が必要だ。

 他者に頼るのではなく、自分の内側に心の拠り所となるものを用意しておくことが重要だ。打ちひしがれた時も、夢があれば頑張れるのでは。夢の実現にたゆまぬ努力をしていれば、「自分の人生にはまだ夢が残されている」と絶望することはないだろう。今まで努力してきたという自負も力強い助けになるだろう。趣味でもなんでもいい。自分の人生に残っていると言えるものを作っておくべきだ。また、自己完結すれば誰に迷惑をかけることもない。他者を心の拠り所にすることは、少なからず相手を利用してしまっている気がする。

 今回言いたいことは、他者に頼りすぎるなということだ。自分の中に硬い芯を持っていれば絶望にも耐えうる強さになる。絶望してから代わりの拠り所を探し始めても、もう手遅れなのだ。